2011年9月25日日曜日

【森の休日】第10回 連続と非連続 ④

1942


誌 名 國語文化 昭和17年3月号
発 行 育英書院
発行日 昭和17年3月1日
発行人 目黒甚七
編集人 加藤銀治郎(國語文化編輯部)
印刷人 根本力三
印 刷 大日本印刷株式会社
判 型 B6判 平綴じ 表紙共全120ページ
定 価 40銭


目次

編輯後記 奥付


本誌を装釘したのが花森安治かどうか、わかりません。正方形のシンプルなデザインは、大政翼賛会が刊行した冊子類に、似ていなくもありません。けれどここにとりあげた理由は、表紙ではなく、花森安治が実名で文章を寄せているからです。しかも大政翼賛会宣伝部所属であることも明記していました。他にないわけではありませんが、掲載された一文は、戦時中の実名での発言として、きわめて重要とおもいます(赤エンピツの線引きは小生ではなく、もとの持ち主によるものです)。


花森安治「言葉は暮しのなかに生きてゐる」前段

花森安治「言葉はくらしのなかに生きてゐる」後段


わずか四ページですから全文をうつしたいほどですが、それは他にゆずるとして、ここでは骨子となる部分を以下にひきます(——以下が引用箇所、あえて常用漢字と現代かなづかいに変えたことを、前もってお断りしておきます)。


——いいえ、と言わなければならない時に、はいと言い、はい、と言わなければならない時に、いいえと言ったために、わずかその一言のために、それから先の一生を、或は一生とまでではなくとも、しないですむ苦労をしなければならなくなったという例は、何も小説のたぐいを借りて来なくても、私たち身のまわりにいくらでも見聞きすることなのである。

——いつも私がふしぎに思うのは、私たちの学校では、小さいときから「綴り方」というものは教えられるのに、「話し方」というものは教わらないことである。

——暮し、というものを大切に考えなくてはならぬことは、もはやいうまでもない。(略)私たちがこの暮しというもの、暮し方というものを大切に考えるならば、それなら「話す」ということを、大切に考えなくてはならないのではなかろうか。

——「綴り方」というものがあって、「話し方」が無いように、暮しを考えるときに、「話す」ということが大切に考えられない、それを私はいつもふしぎに思う。

——書くことはむつかしい。話すことは、もっとむつかしい。

——これまで言われて来た「言葉づかい」は言葉の行儀であり作法である。そうした「言葉づかい」は、たしかに「話し方」の一部ではあろう、全部とは言えないのである。

——私たちの暮しを、もっと強く、もっと豊かにするためにも、その一つの方法として、もっともっと「話し方」を大切に考えたいと思う。みんなが、まいにち話している言葉をもっと大切に考えるようになったら、「売り手も買い手もありがとう」という標語も、恐らく要らなくなる、「さあざます」で武装することも必要ではなくなる、書いてもらうのでなければ、聞いただけでは何のことかわからない漢語を、ことに放送などで聞かなくてすむ。

——言葉は生きている。言葉は暮しのなかにだけ、話のなかにだけ、見事に生きている。


いかがでしょうか。
花森安治はこのときすでに「暮し」に焦点をあて、その変革を志していたことがうかがえます。しかも注目すべきは、ふだんの話し方を大切にすれば、国民向け「標語も、恐らく要らなくなる」と否定し、「さあざます」に象徴される山手夫人の見栄をわらい、「聞いただけでは何のことかわからない漢語を」つかうなと、統制下の放送内容まで、ハッキリ批判していることです。この考えは戦後も変わっておらず、『暮しの手帖』誌上でも、くりかえし訴えていました。


『暮しの手帖』65号 1962  『暮しの手帖』Ⅱ世紀10号 1971


まず、昭和37年7月発行の『暮しの手帖』第65号の「うけこたえ」と題する文章があります。そのおわりに、花森はつぎのように書いています。


——毎日のなんでもないようなうけこたえのなかで、きかれたことには、たとえイヤなことでも、まともにハッキリ返事する、自分の気持は、いい加減にぼかさないで、ハッキリいう、まちがっていたことは、まちがっていたとハッキリあやまる、そういう話し方の基本を、しっかりしつけておきたいものです。
そういう話し方は、どこへ行って習ってこられるというものではありません。まいにちの暮しのなかで、すこしずつ、すこしずつきたえられてゆくものです。

——品のいい言葉づかいや、ていねいな口のきき方、敬語のつかい方といったことも、どうでもいいとおもいませんが、それよりもっとまえの、基本の話し方、それをしつけるほうが、もっと大切なのではないでしょうか。


つぎは昭和46年2月発行の『暮しの手帖』第Ⅱ世紀10号、「国語の辞書をテストする」の文章のはじめです。


——言葉は、暮しの道具である。
言葉がなければ、私たちは、暮してゆくことはできない。
言葉を話したり、書いたりして、私たちは、じぶんのおもっていること、してほしいこと、考えていることを、相手に知らせる。
言葉を読んだり、聞いたりして、私たちは、相手の気持や、考えていることや、してほしがっていることを知るのである。

——暮しは、日々刻々、生きて流れている。
だから、言葉も、日々に生き、刻々に流れている。 


ごらんのとおり、三十年たっても同じです。
すなわち、花森安治が大政翼賛会宣伝部でいったことを<主題>とするならば、戦後の『暮しの手帖』でいっていたことは、その<変奏>なのです。まったく考えを変えていませんし、主張も変えていません。臆することなく、堂々と自説をくりかえしています。

花森安治は『國語文化』に寄稿したとき、すでに日本人が「いいえ、と言わなければならない時に、はいと言い」、その足を後もどりのできない泥沼の中にふみいれてしまっていることが、わかっていたとおもいます。そのまま突き進めば、いつかその代償を払わなくてはならない日が来る、責任のがれのできない日が来ると、時代のゆくすえを見すえています。昭和17年におけるその認識は、おそらく花森ひとりではなかった筈です。

いま、花森安治は過去を「封印した」といわれています。わたしにはどうしても、そうはおもえません。むしろ、若いときに考えたこと、やりたかったことを、それこそ「いのちがけ」で全うしようとし、時代の責任から逃れずに、しんけんに担おうとしたとおもえます。丹念にしらべれば、わかることです。ことのついでに、上掲「うけこたえ」から、花森安治のつぎのことばを引いておきます。


——学校へゆくことがリクツをおぼえることであり、そのリクツは、自分のやったことの責任をのがれるために使われるのだったら、学校など、ゆかなくてもいいのです。
しかし、だって、そんなこといったて、それはそうだが、でも、こういった言葉が、このごろの世の中には、すこし多すぎるようです。
私たちのこどもは、男の子でも女の子でも、こういう責任のがれの卑怯な人間には、したくないものです。


この「うけこたえ」と題する文章は、『暮しの手帖』にのったとき無署名でした。しかし昭和46年に刊行し、読売文学賞を受賞した『一銭五厘の旗』におさめられ、花森安治がかいた文章であることが明白となりました。ちなみに花森は、戦時中のことを「だまされた」とは言っていないと、存命中にハッキリ否定しています。次回【森の休日】では、そのことにふれたいとおもいます。