2011年9月30日金曜日

死刑台のエレベーター ノエル・カレフ 宮崎嶺雄訳

1958


書 名 死刑台のエレベーター  クライム・クラブ10
著 者 ノエル・カレフ(1907−1968)
訳 者 宮崎嶺雄(1908−1980)
解 説 植草甚一(1908−1979)
発行人 小林茂 
発行日 昭和33年9月20日
発 行 東京創元社
発行所 東京都新宿区新宿小川町1−16
印刷者 小田茂作
製本者 小高啓三 
判 型 新書判 函入り 並製無線綴じ 本文252ページ 
定 価 200円


表紙

扉(印は元所有者)

本文扉とクレジット

奥付


【ひとこと】花森安治の装釘は、先に刊行された世界推理小説全集とおなじくシンプルだ。全巻統一したデザインで、箱と表紙の色、書名の英文書体を、各巻で変えている。日本語による表記をゴシックにしているのは、書名の文字色を地色とぬき合せたり、著者名などを白ぬきにしたりするのに、あるていどの太さが必要だからであろう。漢字の明朝体は、文字の画数が多いと、インクでつぶれるおそれがある。

花森の装釘に、もし不満を感じる推理小説ファンがいるとすれば、原書のデザインが、完全に払拭されていることではないだろうか。そのころのペーパーバックのばあい、コミック調の表紙が多い。わかりやすいけれど、なんとなく幼稚に見える。ぎゃくに花森の装釘は、よくいえばハードボイルド、悪くいえばスノビッシュな印象を与えなくもない。本シリーズはファンの受けがよく、花森のクールな装釘も売り上げ増加に一役かったと言えるだろう。


表紙全体

函(ウラ面)


【もうひとこと】クライム・クラブは、植草甚一の監修で、昭和33年から東京創元社が翻訳刊行したシリーズ。全29巻。いずれも植草の作品選択と解説が秀逸で、推理小説ファンには海外の新しい動向を知るための好ガイドとなった。たとえばここでは、作者ノエル・カエルの次のことばを紹介している。

——『その子を殺すな』がパリ警視庁賞をとると、翌日すぐ映画会社が買いに来た。一ヶ月くらいすると、こんどは『死刑台のエレベーター』が売れた。二十年間こつこつやった努力が報いられない一方、こんなこともあるんだ。なんかの賞をもらわない作家は芽が出ないということが、現在ではいえるかもしれない。

フランスを代表する推理作家カレフも、二十年も売れずに苦労したことがわかる。いま日本では、若い才能が賞をうけることが多いけれど、そのあと苦労しているのではないだろうか。


【さらにひとこと】翻訳の宮崎嶺雄は、岸田國士に師事したフランス文学者。デュマ、バルザック、ジッド、カミュのほか、推理小説ではシムノン、ルルーの翻訳があり、創元社の編集長をつとめた経歴もある。花森安治とのつき合いは古く、昭和25年発行の『美しい暮しの手帖』第10号に、ジョルジュ・サンドの小説『愛の妖精』を抄訳でのせた。

蛇足であるが、岸田國士は大政翼賛会の初代文化部長、サンドは「男装の麗人」で知られる女権拡張運動家。『暮しの手帖』における花森安治のしごとは、戦前戦中に育まれた広い交際を絶やすことなく活かしており、過去から逃げるようすも、はばかるところも、ない。誰かが言っているからと尻馬に乗り、じぶんで確かめもしないことを言いふらすことを、流言飛語という。むろん自省自戒である。

2011年9月28日水曜日

おゝフロンティア  ルイ・ラムーア 大門一男訳

1965


書 名 おゝフロンティア 西部開拓史物語 *暮しの手帖の本   
著 者 ルイ・ラムーア(1908−1988) 
訳 者 大門一男(1807−1974) 
発行人 大橋鎭子
発行日 昭和40年1月15日
発 行 暮しの手帖社
発行所 東京都中央区銀座西8−5
印 刷 大日本印刷株式会社 
判 型 B6版変型 並製 無線綴じ 本文252ページ
定 価 320円


表紙ウラから始まるリード


奥付


【ひとこと】大門一男のあとがきによれば、「1959年『ライフ』誌に連載された写真物語にヒントを得て、脚色者ジェイムズ・R・ウェッブがMGMのシネラマ『西部開拓史』の脚色として書き上げたものを、西部小説で有名な作家ルイ・ラムーアがさらに小説として書きあらためたものである」という。つまり、映画のほうが小説よりも先。

原題は “HOW THE WEST WON” ——それを花森安治は、表紙ウラのリードにうたっているように、この物語から開拓者の暮しをささえたフロンティア・スピリットを読みとってほしくて、『おゝフロンティア』としたのであろう。

本書は「*暮しの手帖の本」と呼び名のついたシリーズの一冊。このシリーズには、なぜか装釘した花森安治の名まえがない。記しわすれたともおもえないのだが、あるいは表紙の絵が自作ではないからか。


表紙全体

しおり(登場人物を紹介)


【もうひとこと】花森安治は、昭和38年5月発行『暮しの手帖』69号に、「はるかなかなたには リリス・プレスコット伝」を書いてのせた。そのきっかけは映画『西部開拓史』を見て感動したからと言っている。

——もっとも感動した場面は、あのシネラマの巨大な画面いっぱいにひろがった西部の砂地の、左の隅のほうに小さく動いてゆくながい幌馬車隊の光景であった。(略)この幌馬車隊のどこかに、彼女(=リリス)もいた筈である。

リリス・プレスコットは主要登場人物のひとり。映画で演じたデビー・レイノルズの可憐な容姿が、いくたの苦難にもめげずに生きぬくリリスの強さを、いっそうきわだたせた。それが花森をしてリリスの小伝を書かせた、と小生はおもう。

——当時のいくつかの記録の底に共通して流れていたのは、女性男性を問わず、このリリスの精神であった。彼等はみな帰ることをしなかった。さあ、行こう、これが彼等みんなの合言葉だったのである。

(註・花森安治の「はるかなかなたには リリス・プレスコット伝」は、簡潔に「リリス・プレスコット伝」と改題し、『一銭五厘の旗』に収載している)

日本は戦争に敗れた。敗れてのち日本がふたたび立ち上がれたのは、足の引っ張り合いにうつつをぬかすことなく、平和で豊かに暮したいという日本人みなの願いと、前向きの姿勢があったからではなかろうか。


【さらにひとこと】 小生が編集部にいたころ、強く印象づけられた花森安治のことばがある。「中の一人は君にして、中の一人は僕なるぞ」と対句になった言葉であった。ずっとその言葉が気になっていた。しらべてみると、戦前の『尋常小学校国語読本』の中にあった。「長い行列」と題する詩である。以下に全行うつす。


一年生を先頭に、二、三、四、五、六年が 四列になりて歩く時、
全校生徒の八百は八十間もつゞくなり。

日本中の小学生、八百萬人ありといふ。
八百萬の小学生、四列になりて歩かんか、八十萬間つゞくべし。

君、此の長き行列の、
中の一人は君にして、中の一人は僕なるぞ。

日本中の小学校、三萬近くありといふ。
三萬近き学校に、分かれて学ぶわれわれの、
望に向ふ足なみは、皆一せいにそろふなり。

世界に比なき帝國の、
強き御民となるべしと。強き御民となるべしと。


花森安治は、「中の一人は君して、中の一人は僕なるぞ」と、その対句だけを、ことあるごとに部員に言って聞かせた。一言でいえば、人間みな同じという平等思想であろう。人生とは「行列」のようなものかもしれない。じぶんだけは違うとおもっても、ひっきょう同じ「時」を、同じように歩んでいる。よろこびもあり、悲しみもある。気高くもあり、愚かしくもある。くりかえしつづく長い行列。——
そんなふうに見ると、人生って、まんざらでもないな、とおもう。

2011年9月26日月曜日

神聖受胎 高見順

1948


書 名 神聖受胎
著 者 高見順(1907−1965)
発行人 永井直保 
発行日 昭和23年3月25日
発 行 永晃社
発行所 東京都世田谷区下代田町92
印 所 永井印刷工業株式会社
印刷所 東京都中央区入船町2−3  
判 型 B6判 上製糸綴じ 丸背ミゾ 本文338ページ
定 価 110円


見返し(前後同一デザイン)


奥付

ウラ表紙


【ひとこと】花森安治は、永晃社「青春叢書」も装釘した。購買対象を女性にあてこんだ叢書である。この表紙はそれと同じおもむきで、若い娘を描いている。けれど、どうも花森らしくない。なぜかしら。こんど刊行された『花森安治戯文集2』に、「中原淳一を語る」という花森の中原淳一評がおさめてある。こんな箇所があって、ちょっと納得。

——彼(=中原淳一)が、いまさら芸術家扱いされたがったり、「抒情画家」でなく「画家」になりたがったりすることは、愚劣である。インテリぶる必要などましてない。第一できない。
ふてぶてしく、俺は叙情画家である、俺は少女相手の画工である、とうそぶける不敵さ、その面だましいを身につけることである。その方が、かえって彼の悲願にも案外近づくことになるのではないか。

花森の、この歯に衣きせぬ批評は、中原やそのファンにはこたえたであろう。だが、まちがっていなかったことは、その後の中原のしごとを見ればわかる。いいかえれば、この批評にある「彼」を「私」におきかえれば、それはそのまま花森安治じしんの自戒になっているからだ。


表紙全体


【もうひとこと】この『神聖受胎』には、やはり永晃社版行の特装限定本がある。小生には古書価が高すぎて、手が出ない。いと口惜し。

ご存じのように、高見順と永井荷風とは、いとこの関係にある。 発行人の永井直保と荷風とのあいだに、もしや親戚関係がとおもったが、それはないらしい。

福島保夫『書肆「新生社」私史』に、高見順が暮しの手帖社にどなりこむエピソードがはさまれている。花森安治には、きわめて常識的な金銭哲学があった。それがときに誤解をまねいたようだ。

2011年9月25日日曜日

【森の休日】第10回 連続と非連続 ④

1942


誌 名 國語文化 昭和17年3月号
発 行 育英書院
発行日 昭和17年3月1日
発行人 目黒甚七
編集人 加藤銀治郎(國語文化編輯部)
印刷人 根本力三
印 刷 大日本印刷株式会社
判 型 B6判 平綴じ 表紙共全120ページ
定 価 40銭


目次

編輯後記 奥付


本誌を装釘したのが花森安治かどうか、わかりません。正方形のシンプルなデザインは、大政翼賛会が刊行した冊子類に、似ていなくもありません。けれどここにとりあげた理由は、表紙ではなく、花森安治が実名で文章を寄せているからです。しかも大政翼賛会宣伝部所属であることも明記していました。他にないわけではありませんが、掲載された一文は、戦時中の実名での発言として、きわめて重要とおもいます(赤エンピツの線引きは小生ではなく、もとの持ち主によるものです)。


花森安治「言葉は暮しのなかに生きてゐる」前段

花森安治「言葉はくらしのなかに生きてゐる」後段


わずか四ページですから全文をうつしたいほどですが、それは他にゆずるとして、ここでは骨子となる部分を以下にひきます(——以下が引用箇所、あえて常用漢字と現代かなづかいに変えたことを、前もってお断りしておきます)。


——いいえ、と言わなければならない時に、はいと言い、はい、と言わなければならない時に、いいえと言ったために、わずかその一言のために、それから先の一生を、或は一生とまでではなくとも、しないですむ苦労をしなければならなくなったという例は、何も小説のたぐいを借りて来なくても、私たち身のまわりにいくらでも見聞きすることなのである。

——いつも私がふしぎに思うのは、私たちの学校では、小さいときから「綴り方」というものは教えられるのに、「話し方」というものは教わらないことである。

——暮し、というものを大切に考えなくてはならぬことは、もはやいうまでもない。(略)私たちがこの暮しというもの、暮し方というものを大切に考えるならば、それなら「話す」ということを、大切に考えなくてはならないのではなかろうか。

——「綴り方」というものがあって、「話し方」が無いように、暮しを考えるときに、「話す」ということが大切に考えられない、それを私はいつもふしぎに思う。

——書くことはむつかしい。話すことは、もっとむつかしい。

——これまで言われて来た「言葉づかい」は言葉の行儀であり作法である。そうした「言葉づかい」は、たしかに「話し方」の一部ではあろう、全部とは言えないのである。

——私たちの暮しを、もっと強く、もっと豊かにするためにも、その一つの方法として、もっともっと「話し方」を大切に考えたいと思う。みんなが、まいにち話している言葉をもっと大切に考えるようになったら、「売り手も買い手もありがとう」という標語も、恐らく要らなくなる、「さあざます」で武装することも必要ではなくなる、書いてもらうのでなければ、聞いただけでは何のことかわからない漢語を、ことに放送などで聞かなくてすむ。

——言葉は生きている。言葉は暮しのなかにだけ、話のなかにだけ、見事に生きている。


いかがでしょうか。
花森安治はこのときすでに「暮し」に焦点をあて、その変革を志していたことがうかがえます。しかも注目すべきは、ふだんの話し方を大切にすれば、国民向け「標語も、恐らく要らなくなる」と否定し、「さあざます」に象徴される山手夫人の見栄をわらい、「聞いただけでは何のことかわからない漢語を」つかうなと、統制下の放送内容まで、ハッキリ批判していることです。この考えは戦後も変わっておらず、『暮しの手帖』誌上でも、くりかえし訴えていました。


『暮しの手帖』65号 1962  『暮しの手帖』Ⅱ世紀10号 1971


まず、昭和37年7月発行の『暮しの手帖』第65号の「うけこたえ」と題する文章があります。そのおわりに、花森はつぎのように書いています。


——毎日のなんでもないようなうけこたえのなかで、きかれたことには、たとえイヤなことでも、まともにハッキリ返事する、自分の気持は、いい加減にぼかさないで、ハッキリいう、まちがっていたことは、まちがっていたとハッキリあやまる、そういう話し方の基本を、しっかりしつけておきたいものです。
そういう話し方は、どこへ行って習ってこられるというものではありません。まいにちの暮しのなかで、すこしずつ、すこしずつきたえられてゆくものです。

——品のいい言葉づかいや、ていねいな口のきき方、敬語のつかい方といったことも、どうでもいいとおもいませんが、それよりもっとまえの、基本の話し方、それをしつけるほうが、もっと大切なのではないでしょうか。


つぎは昭和46年2月発行の『暮しの手帖』第Ⅱ世紀10号、「国語の辞書をテストする」の文章のはじめです。


——言葉は、暮しの道具である。
言葉がなければ、私たちは、暮してゆくことはできない。
言葉を話したり、書いたりして、私たちは、じぶんのおもっていること、してほしいこと、考えていることを、相手に知らせる。
言葉を読んだり、聞いたりして、私たちは、相手の気持や、考えていることや、してほしがっていることを知るのである。

——暮しは、日々刻々、生きて流れている。
だから、言葉も、日々に生き、刻々に流れている。 


ごらんのとおり、三十年たっても同じです。
すなわち、花森安治が大政翼賛会宣伝部でいったことを<主題>とするならば、戦後の『暮しの手帖』でいっていたことは、その<変奏>なのです。まったく考えを変えていませんし、主張も変えていません。臆することなく、堂々と自説をくりかえしています。

花森安治は『國語文化』に寄稿したとき、すでに日本人が「いいえ、と言わなければならない時に、はいと言い」、その足を後もどりのできない泥沼の中にふみいれてしまっていることが、わかっていたとおもいます。そのまま突き進めば、いつかその代償を払わなくてはならない日が来る、責任のがれのできない日が来ると、時代のゆくすえを見すえています。昭和17年におけるその認識は、おそらく花森ひとりではなかった筈です。

いま、花森安治は過去を「封印した」といわれています。わたしにはどうしても、そうはおもえません。むしろ、若いときに考えたこと、やりたかったことを、それこそ「いのちがけ」で全うしようとし、時代の責任から逃れずに、しんけんに担おうとしたとおもえます。丹念にしらべれば、わかることです。ことのついでに、上掲「うけこたえ」から、花森安治のつぎのことばを引いておきます。


——学校へゆくことがリクツをおぼえることであり、そのリクツは、自分のやったことの責任をのがれるために使われるのだったら、学校など、ゆかなくてもいいのです。
しかし、だって、そんなこといったて、それはそうだが、でも、こういった言葉が、このごろの世の中には、すこし多すぎるようです。
私たちのこどもは、男の子でも女の子でも、こういう責任のがれの卑怯な人間には、したくないものです。


この「うけこたえ」と題する文章は、『暮しの手帖』にのったとき無署名でした。しかし昭和46年に刊行し、読売文学賞を受賞した『一銭五厘の旗』におさめられ、花森安治がかいた文章であることが明白となりました。ちなみに花森は、戦時中のことを「だまされた」とは言っていないと、存命中にハッキリ否定しています。次回【森の休日】では、そのことにふれたいとおもいます。

2011年9月23日金曜日

天と地の結婚 武田泰淳

1953


書 名 天と地の結婚   
著 者 武田泰淳(1912−1976) 
発行人 野間省一
発行日 昭和28年12月5日
発 行 大日本雄辯会講談社
発行所 東京都文京区音羽町3−19
印刷人 永井直保
印 刷 永井印刷工業株式会社
印刷所 東京都中央区入船町2−3 
製 本 大進堂製本
判 型 B6判 上製 カバー 無線綴じ 本文340ページ
定 価 280円


本体表紙


奥付


【ひとこと】表紙の絵は風見、つまり風向計を真上から見たところ。生きのこった特攻隊飛行士の葛藤に、戦時下の供出ダイヤをめぐる欲望がからむ小説。戦争で人を殺した体験をもつ男が、戦後の社会でその罪をつぐなうことなく生き続けることの苦悩が、ものがたりの随所からつたわる。それは武田泰淳その人の苦悩であった。

『天と地の結婚』というタイトルはイロニカルで、理解にむつかしい。涅槃経に「生死をもって此岸となし、涅槃をもって彼岸となす」があるという。天国と地獄は、彼岸にあるのではない。人間が迷いに生きる此岸にある、それが人生だと、武田は言いたかったのではないかしら。

昭和42年9月発行の『暮しの手帖』91号、雑記帳の欄のトップに武田泰淳の随想がのっている。武田は歯がわるく、こまかく切って調理していないと食べられないのだった。戦場は、兵士の歯をダメにした。花森も初老にして義歯であった。共感できたのであろう。武田の次にのせられた随想をよんで、おどろいた。なんとダイヤの話ではないか。偶然とはおもえない。


表紙全体

カバー全体

三島由紀夫の寸評(キャッチコピー)入りのオビ


【もうひとこと】背が焼けてしまっていたが、オビがまいてあり、その部分は色があせていなかった。本ができたころは、白地に赤と紺のオビがさぞや目立ったことだろう。けれどオビは、表紙の絵が風向計であること、著者が武田泰淳であることを、わかりにくくした。

オビのコピーは、おもてを三島由紀夫が書き、うらは武田泰淳の「著者の言葉」となっている。小説のテーマを、男の戦争体験にとっていることに、ふたりとも触れていない。そこに朝鮮戦争があった当時の世相が映されているような気がするのだが。

印刷の永井直保と永井印刷工業の名まえからおもいだした。永晃社——深田久彌『知と愛』、久米正雄『嘆きの市』をだした青春叢書の版元である。こんなところでまた花森とつながっていた。

【哀悼】辺見じゅんさんのご冥福をお祈りいたします。
かつて辺見さんは、NHK週刊ブックレビューで、拙著『花森安治の編集室』をとりあげ、花森を「戦後随一の編集者」とたたえてくださいました。二度と戦争はおこさせぬ、という辺見さんの強いおもいが、戦場でいのちを失った兵士の魂をいたむ作品をうみました。合掌

2011年9月21日水曜日

ポエム・ライブラリイ

1955 ポエム・ライブラリイ1 同3
ポエム・ライブラリイ4 同6


書 名 ポエム・ライブラリイ 全6巻   
著 者 下掲の【補記】に列挙
発行人 小林茂
発行日 昭和30年8月5日〜31年2月20日
発 行 東京創元社
発行所 東京都新宿区小川町1−16
印刷人 曾根盛事 
判 型 新書判 上製カバー 無線綴じ 本文216〜288ページ
定 価 140〜180円


【ひとこと】谷川俊太郎詩集に先んじて創元社がだした詩論集である。全6巻であるが、第2巻および5巻がカバーが欠けていたため、4冊をならべてみた。ならべてみて、うかつなことに、はじめて色の違いがあることに気づいた。いったい、どこを見ていたやら。いまさら恐縮してもおそいが、小生は、けっこういいかげんなのである。ま、おわかりであっただろうが。

へらず口はおいといて、書名が書き文字のばあいと活字のばあいを、見くらべていただきたい。書き文字のほうは、やはり花森の個性が強く感じられてしまう。そこで花森安治は、小説や随筆はともかく、詩集に書き文字は不向き、と考えたのじゃないかしら。「人生はボードレールの一行に如かず」と芥川龍之介はいったけれど、詩人が言葉で築き上げた世界に、花森は立ち入らないようにした、と小生はおもうのである。

絵のほうは見てのとおりだ。魚と葉っぱらしき図だが、色がちがう。これは各々ちがう色で描き分けたのではなく、カラーチャートで色をさがして指定し、印刷ですり分けたのであろう。


大日本インキ化学『カラーチャート』第2版から


【もうひとこと】こんなことはデザインや編集関係者には、わかりきったことであるけれど、拙ブログをごらんくださっているのは業界人ばかりではないようだから、すこし補足しておきたい。製版時の色指定のことである。

カラー印刷の場合、インクはふつう4色、青赤黄の3色と黒をつかう。旧来のカラー印刷は、カラープリンターとちがって、版画のようにそれぞれインク別に刷り、4色を重ねてさまざまに色を作りだした。

このやり方を応用すれば、もとは黒一色の鉛筆画であっても、上の魚は赤、下の魚は青、葉っぱは黄と、それぞれ色を変えて印刷できる。それを色指定(色アミ指定)という。色の刷り分けに欠かせないのがカラーチャートで、これさえあれば一枚の鉛筆画を、ごらんの表紙のように印刷できるのだ。また、たとえば魚や葉っぱのまわりに描いてあった筈の鉛筆のふちどりも、黒インクの版を細工すれば消せる。

四種類の表紙をしさいに見ると、花森安治はかなり細かに指定し、あたかもそれぞれ別に絵を描いたように見せていることがわかる。いまなら花森は、じぶんでコンピュータを操作し、処理するだろう。63年前のきのう、昭和23年9月20日、花森安治は大橋鎭子ら数人のなかまと『美しい暮しの手帖』を世に出した。往事茫々——。


【補記】各巻の書名と執筆者
第1巻『私は詩をこう考える』
金子光晴、小野十三郎、北川冬彦、西脇順三郎、鮎川信夫、村野四郎、山本健吉、北園克衛、大岡信、安藤一郎、安東次男、北村太郎、中村稔

第2巻『私はこうして詩を作る』
草野心平、山本太郎、北園克衛、谷川俊太郎、北川冬彦、黒田三郎、安藤一郎、木原孝一、三好達治、壺井繁治、高橋新吉

第3巻『私はこうして詩を作る』Ⅱ
村野四郎、三好豊一郎、岡本潤、田村隆一、金子光晴、長島三芳、小野十三郎、深尾須磨子、田中冬二、山之口貘、西脇順三郎

第4巻『西洋の詩を読む人に』
深瀬基寛、安藤一郎、伊吹武彦、富士川英郎、除村吉太郎

第5巻『学校の詩サークルの詩』
巽聖歌、山本和夫、桜井勝美、国分一太郎、坂本越郎、関根弘、菅原克己、宇井英俊、藤島宇内、大江満雄、伊藤信吉

第6巻『現代詩はどう歩んできたか』
藤原定、神保光太郎、木原孝一、壺井繁治

2011年9月19日月曜日

谷川俊太郎詩集

1958


書 名 谷川俊太郎詩集 ポエム・ライブラリイ   
著 者 谷川俊太郎(1931−)
解 説 長谷川四郎(1909−1987)
発行人 小林茂
発行日 昭和33年5月5日
発 行 東京創元社
発行所 東京都新宿区小川町1−16
印刷人 広井継之助 
判 型 新書判 上製カバー 無線綴じ 本文180ページ
定 価 180円


本体表紙


奥付 (右は長谷川四郎の解説末尾部分)


【ひとこと】花森安治の装釘本のなかで、書名をゴシック体にしている数少ない一冊。「ポエム・ライブラリイ」とは、本書にさかのぼること三年前、おなじ東京創元社から刊行された全六巻のシリーズ・サブタイトルで、企画内容は主として詩論、詩についての創作論、および詩の鑑賞のしかたをのべたもの。いわゆる詩集ではなかったし、花森安治の装釘も、本書とおなじ絵柄をつかってはいたが書名は活字でなく、花森の書き文字であった。

しかるに本書で花森は、深尾須磨子『列島おんなのうた』とおなじく書き文字を選んでいない。小生の見方であるが、書き文字のあたえる印象は、詩人が表現しようとする感性よりも、強くなりかねないからではないかとおもう。いわば没個性の活字のほうが、それもあまり凝らないほうが詩集にはよくて、また明朝よりゴシックのほうが堅牢さを感じさせるような気もする。けれど活字もあしらい方しだい。微妙だ。


表紙全体

カバー全体


【もうひとこと】本書には、谷川の第一詩集『二十億光年の孤独』からも十五篇がえらばれている。そのなかに「かなしみ」と題した六行の詩がある(ひきうつしたいけれど、谷川の考えを尊重し、ひかえる)。

その詩をつくったとき、谷川俊太郎は二十そこそこの青年。いま小生は六十をすぎて、人生の「おとし物」の多さに、ことばを失ってしまう。わが身の来し方をカミングアウトし、以て過去の「汚点」をすべて帳消しにできるなら、どんなに気らくか(——なワケもないか)。


【おわび】じぶんのブログを、ときどきあとから読みかえします。すると、なぜか見つかるのです。誤字脱字や書きまちがい、あるいは同じことばをくりかえしつかうなど、 つぎつぎ瑕疵が出てきます。まことに慚愧にたえません。どうぞご寛恕のほどを。つまり、これからもやらかすにちがいありませんから、そのせつは「アホがまたやっとるわい」と、お笑いすごしください。

ところで扇谷正造さんに「誤字脱字は、ぬいてもぬいても出てくるシラガのようなもの」というセリフがありました。わたしがそのセリフを憶えているのは、いいわけの気持があるからですが、そればかりじゃないのです。信平さんのオツムは薄かった。わが花森は写真で見てのとおり総白髪。ふたりなら何にたとえるか、いつもそれを考えてしまいます。それにしてもこのごろは、漢字のバカ変換がめだちますね。三羽ガラスの時代にはなかったことでしょう。

2011年9月18日日曜日

【森の休日】第9回 連続と非連続 ③ 

鐵村大二の生活社刊行の「婦人の生活シリーズ」は、第三冊めから発行人を鐵村、編輯人を今田謹吾とし、立場を分けて発行されました。しかしそれは読者には気づきにくい変化です。だれの目にもはっきり変わったのは雑誌の大きさ、B5判からA5判に小さくなりました。


1942


書 名 すまひといふく
装 釘 佐野繁次郎(1900−1987)
編輯人 今田謹吾(1897−1972)
発行人 鐵村大二
発行日 昭和17年1月15日(初版)
発 行 株式会社生活社
発行所 東京市神田区須田町2−17
印刷人 古川一郎
印 刷 共同印刷株式会社
印刷所 東京市小石川区久堅町108
製 本 金子製本株式会社
判 型 A5判 上製カバー 本文グラビア共234ページ
定 価 1円30銭


目次 前半

目次 後半

奥付


変化の背景には、印刷用紙の統制があったとおもいます。戦時中、統制されたのは言論や表現だけではなかったのでした。情報局の指導監督のもと「日本出版会」が各社へ用紙をわりあてました。用紙の購入も出版社の自由にならなかったのです。判型の縮小は、かならずしも需給関係を反映したものではなかったようですが、日本は対米開戦から一年にして、はやくも物資不足と窮乏のながい道を歩みはじめたことが、このような冊子の判型ひとつにもうかがえます。


1942


書 名 くらしの工夫
装 釘 佐野繁次郎(1900−1987)
編輯人 今田謹吾(1897−1972)
発行人 鐵村大二
発行日 昭和17年1月15日(初版)
発 行 株式会社生活社
発行所 東京市神田区須田町2−17
印刷人 古川一郎
印 刷 共同印刷株式会社
印刷所 東京市小石川区久堅町108
製 本 金子製本株式会社
判 型 A5判 上製カバー 本文グラビア共234ページ
定 価 1円30銭


目次 前半

目次 後半

奥付


二冊の目次をごらんにいれたのは、見れば見るほど、いろいろなことに気づくからです。目次が「もくろく」に、デザインが「でざいん」に変わっています。しかしいちばん目につくのは、判型が変わっても、レイアウトのスタイルに変わりがないこと。

ただし内容は、だいぶ変わってきました。『くらしの工夫』を書名にしたように、工夫、モノの再利用、リフォーム、手作りの記事が、あきらかに多くなってきています。それはなによりも実用を重視した編集方針といえるでしょう。しかも(女性名で)書かれている個々の記事をよめば、それが戦後のモノのないころの『美しい暮しの手帖』の記事とあまりに似ていて、あぜんとするほどです。

しかし、生活社の「婦人の生活シリーズ」は、全10冊の刊行予定だったのが、この4冊でとだえます。どこかのなにかに告知があったのかもしれませんが、本誌には休刊とも終刊ともことわりがないままでした。奥付に初版五万部とあり、販売不振とみなすには疑問がのこります。いったい何が理由だったのでしょうか。その謎は、それから二年の後、築地書店から『切の工夫』が刊行されて、いっそう深まります。


1944


書 名 切の工夫
装 釘 佐野繁次郎(1900−1987)
編輯人 小山勝太郎(生没年不明)
発行人 大澤慶壽
発行日 昭和19年3月10日
発 行 築地書店
発行所 東京都日本橋区堀留町1−1
印刷人 大橋芳雄
印 刷 共同印刷株式会社
印刷所 東京都小石川区久堅町108
製 本 金子製本株式会社
判 型 B6判 上製カバー 本文グラビア共262ページ
定 価 2円(含特別行為税相当額10銭)



目次 前半

目次 後半

奥付

『切の工夫』(註、切とは布地のこと)という書名はともかく、判型がB6判と小さく、そのうえ版元が築地書店ですから、これが生活社「婦人の生活シリーズ」の続刊とは、ちょっと想像しにくいでしょう。じっさい手にとって、レイアウトや目次をみ、なかを読んでみないと、奥付の記載だけでは判別しにくいのです。とりわけ東京婦人研究会の小山勝太郎なる人物が、とつじょ編者としてあらわれてくるのもウサンで、関心をもって見ないと、まったく新しい本におもえます。

小山の詮索はおくとして、まずは目次です。『くらしの工夫』のときと同じように、平かなで「もくろく」にしています。でも、それは瑣末なこと。装釘を佐野繁次郎、横光利一をはじめとする執筆陣、さらに読物の主軸をなす安並半太郎「きもの読本」まで、まったく「婦人の生活シリーズ」とおなじ線上にある企画なのです。

二年前、いったん途絶えたかに見えた企画が、ここによみがえっています。いや、同一性をたもって存続しています。変わったのは判型だけで、かつての生活社版を知るひとには、これが続刊であることはすぐわかります。実用性を重んじる安並半太郎、すなわち花森安治の主張は、なんら変わっていません。かれらはなぜ、こんな手のこんだことをしなければならなかったのでしょうか。

戦時中、大政翼賛会で「国策宣伝」にたずさわった花森のことを、国民を戦争にかりたて、窮乏生活を強いた張本人であるかのように非難する声が、昔も今もあります。しかし、その非難は、すこし短絡しすぎているようにおもえます。安並半太郎という、もう一人の花森の存在が、そこから見えてきません。

つまり国策ですから、戦争にかりたて窮乏生活を強いるだけならば、宣伝部として「号令」をかければ済むことなのです。にもかかわらず花森安治は、用紙の確保がむつかしい民間の出版社で、しかも匿名をつかい、モノの再利用やくふうを具体的な記事にして、懇切ていねいに紹介しつづけました。それも一社ならず二社にわたってなのです。

かりに鐵村大二が大政翼賛会の花森と組み、親方日の丸で「婦人の生活シリーズ」を出版した、とみなすのであれば、用紙の調達に苦労することもなく、鐵村の生活社は四冊で頓挫することもなかった筈です。その事情は一冊でおわった築地書店とておなじ。

出版は「志」といわれます、しかし志だけで成り立つ事業ではないことも、またたしかではないでしょうか。そこに現在からは想像を絶するほどの困難が、戦時中の日本にあったとおもいます。言論弾圧の悲劇は、それをものがたっています。花森安治の戦いは、おのれの信条に殉ずることではなく、人々の暮しをふみにじるものに対して、勝つことだった筈です。

その戦いは、匿名であれ実名であれ、戦時中であれ戦後であれ、生涯を通じています。椹木野衣さんが指摘したように、花森安治の「思想」は一貫している、ということです。

【お知らせ】この項、次回もつづきます。次回は、大政翼賛会宣伝部の花森安治としての発言と、戦後の『暮しの手帖』の花森安治としての発言内容の同一性をさぐります。