2013年1月31日木曜日

しょうけい館

しょうけい館という施設をごぞんじですか。
東京九段下にあり、ホームページに、つぎのように紹介しています。

《しょうけい館は、戦傷病者とその家族等の戦中・戦後に体験したさまざまな労苦についての証言・歴史的資料・書籍・情報を収集、保存、展示し、後世代の人々にその労苦を知る機会を提供する国立の施設です》
http://www.shokeikan.go.jp/

告知はまだですが、ここで花森安治展を3月下旬から開催することになりました。その準備がはじまっています。近いうちに案内リーフもできるようで、いまからたのしみです。

左・『暮しの手帖「花森安治」保存版』 右・『考える人2011年夏号』

花森安治の戦争体験といえば、どうしても大政翼賛会での宣伝活動に従事したことに関心が集まりがちですが、その前は、花森じしんも満洲の前線に兵隊としておくられています。劣悪な環境で胸をわずらい帰還した傷病兵でした。

花森が和歌山の陸軍病院で療養していたころ、そこで見聞きし悟ったことなのでしょうか、戦傷によってからだが不自由になった人がふびんに思えても、いっときの同情心から手助けしてはいけない、その人が自立するのをさまたげることになる、と編集部でのお茶の時間に話していたのを記憶しています。

翼賛会時代、あるいは戦後の花森について、つねに距離をおくようなよそよそしさを感じたという証言があります。花森独特の気づかいが相手につたわったかどうか、それはわかりませんが、誰にたいしても気をつかいすぎるところがありました。その気づかいが、大政翼賛会時代について沈黙させた最大の理由であろう、とわたしは考えています。けっして臆病からでも保身のためでもない。

誤解をまねきやすい言葉があります。翼賛会での宣伝業務にたずさわったことをもって「花森は、一銭五厘のハガキを出す側にいたのに、被害者のような文章をかくのはおかしい」というものです。国家総動員法の施行を知らない人がきけば、翼賛会にいた人間は、召集が免除されていたかのように錯覚させます。

免除はありえません。同僚だった中山富久をはじめ、平凡出版(現マガジンハウス)をおこした岩堀喜之助、清水達夫らも翼賛会にいたとき召集され、ひどいめに合っています。傷病兵として現役解除されたはずの花森じしんも再召集されかかっています。だから家を焼かれる「空襲よりも召集がこたえた」と書きました。戦争末期、戦場から生きてかえれるとは誰もおもっていなかったからです。

戦後六〇年がたって、ようやく戦場体験者が重い口をひらくようになりました。「おめおめ生き恥をさらすよりも、仲間といっしょに死んだほうがどれほどらくか」——戦傷病者は、からだとこころの両方に、消し去りがたい傷を負った人々ではなかったでしょうか。その視点から、多くのひとに、花森安治の戦後のしごとを見ていただけるといいな、とわたしは願っています。ふたたび戦争の犠牲者をだしてはいけません。

戦争でうけた痛みは、体験した者にしかわからぬとしても、その後に生まれてきた者として、せめてその痛みを想像する力を失わないようにしたいとおもっています。



2013年1月24日木曜日

武器としての文字とことば

暮しの手帖 2世紀2号 1969


花森安治の編集者としての特質の一つに、文章を視覚からとらえていた点があります。できるだけ漢字をすくなくし、誌面を黒っぽく感じさせないよう工夫していました。といっても、それはけっして内容を軽くしたのではなく、漢字を多用することが重苦しい印象をあたえ、読むまえに拒絶されたくなかったからでしょう。どんなに立派な内容も、それが読んでもらえなかったら、文章にたくした役割ははたせません。

花森がこころみた工夫のなかで、これはとおもわれる文章が『暮しの手帖』2世紀2号によせた「国をまもるということ」でした。

「国をまもるということ」掲載面 <くに>が散見できる

この文章は、ぜんたいが397行、7千字たらずのエッセイですが、花森の文字づかいに、きわだった特徴があります。国を意味する文字を、花森は音訓とりまぜて全ぶで75回つかい、そのうち、国と漢字で表記したのが29回、ほかの46回はヤマカギをつけた平かなの<くに>でした。花森は文中、「ここで<くに>というのは、具体的にいうと、政府であり、国会である」と説明しています。

なぜ、そうまでして、<くに>という言葉を、読者に印象づけたかったのか。きっと、わたしたちが漠然とうけとめている国というものを、深く考えてほしかったからでしょう。平和憲法を変えようとするうごきが、日ましに強く高まってきているのを花森は感じており、さきの戦争で、庶民が<くに>からどんな目にあわされたか、思い出させたかったにちがいありません。

花森は、戦争で死んだ人たちやその遺族にくらべ「ぼくなどは問題ではない」としながらも、「学校を出ると、とたんに徴兵検査があって、甲種合格になった。ちょうど日華事変の勃発した年で、入営するとたちまち前線へもっていかれた。(改行)ずいぶん、苦労した。(改行)あげくのはてに、病気になって、傷痍軍人になってやっと帰ってきた」と、じしんの戦争体験をふりかえっています。

注目すべきは、「ぼくは、軍事教練に反対して出席しなかったから、将校になる資格はなかった。帰ってきたとき、上等兵であった。(改行)それを不服でいっているのではない。兵隊と将校では、おなじ召集でも(略)大いにちがうことをいっておきたかったからである」という一節です。とかく軍備増強をいう人は、じぶんは兵隊ではなく、安全な場所にいて指揮できる側に立てる、と過信しているフシがあります。品のよい言いかたではありませんが、こちらもじゅうぶん「平和ボケ」です。


暮しの手帖 2世紀8号 1970


花森安治の戦争体験にもとづくエッセイは、翌年の『暮しの手帖』2世紀8号によせた「見よぼくら一銭五厘の旗」で頂点にたっします。一銭五厘はハガキのねだんであり、将校とちがい兵隊は、ハガキ一枚でいくらでも補充できる「消耗品」のあつかいを受けたことを意味しました。このエッセイの冒頭で花森は、

ぼくら せいぜい 一銭五厘だった 
ぼくらの命や暮しなど 国にとって どうでもよかったのだ 
そして戦争にまけた 
民主々義の<民>とは ぼくらのことだと教えられた 
それを ぼくら うれしがって うじゃじゃけているあいだに 
二五年もたって 気がついたら 
また ぼくら 一銭五厘になりかかっている

と書きました。そして、あの有名な文章に到達します。


一戔五厘の旗 表紙 1971


民主々義の<民>は 庶民の民だ
ぼくらの暮しを なによりも第一にするということだ
ぼくらの暮しと 企業の利益とが ぶつかったら
企業を倒す ということだ
ぼくらの暮しと 政府の考え方がぶつかったら
政府を倒す ということだ
それが ほんとうの<民主々義>だ

花森安治は、上掲二文をふくむ自選作品を『一戔五厘の旗』として一巻にまとめて上梓し、それにより昭和46年度読売文学賞をうけました。


わが思索わが風土 カバー 1974


ところが翌年、昭和47年6月、朝日新聞に5回にわたって寄せた「わが思索わが風土」の最終回、読者にはおもいがけぬことばが、花森から発せられます。

「生れた国は、教えられたとおり、身も心も焼きつくして、愛しぬいた末に、みごとに裏切られた。もう金輪際こんな国を愛することは、やめた」

「戦後だけでなく、明治以来、新聞のやってきた最大のマイナスは、といわれたら、やはり、こんどの戦争を、ついに防ぐことはできなかったことではないだろうか。(改行)ぼくに至っては、戦争を防ぐどころか、一生けんめい、それに協力してきたのだ。(改行)それだけに、若いころのぼくと、おなじようなことを、いまの若いジャーナリスト諸君が、ちらっちらっとやっている、それを見聞きするのが、つらい」

このあたりの文章は『花森安治の仕事』をあらわした酒井寛さんも着目しています。そして暮しの手帖の編集会議で録音された花森安治のナマのことばを、つづけて紹介しています。

「 もうちょっと、文章をじょうずになれということだ。ジャーナリストは、言葉を軽蔑しておったんでは仕事にならんぞ、自衛隊はどんどん訓練しとるわ。(中略)われわれは、なにを訓練しとるんだ。(改行)われわれの武器は、文字だよ、言葉だよ、文章だよ。それについて、われわれはどれだけ訓練しているか。それで言葉はむなしい。文章は力のまえによわい、なんて平気で言うんだ。ぼくは、そうは思わんよ」・・・


——ここで話を転じます。
ながながと花森安治の文章を紡いできたのには、わけがあります。わたしの推論をお聞かせしたかったからですが、それ以上に花森のことで新たな誤解を招きたくなかったからです。というのも前回のブログで、わたしは「日蓮のハッタリに学べ」という見出しに言及し、それを否定する趣旨のことをかきました。しかし、それだけでは意を十分つくしておらず、なお懸念がのこりました。

花森が「ハッタリに学べ」というとは思えません。しかしそれでも「日蓮の文章に学べ」という可能性まで、わたしには否定しきれないからです。わたしは「国をまもるということ」を再読し、花森の<くに>という文字とことばの使い方を追いながら、ある文章の存在がアタマから離れなくなりました。それは日蓮の『立正安国論』です。

正直にうちあけますと、『立正安国論』は、当時の作法にしたがって全文漢字で書かれています。わたしには読みこなせない文章です。だから元本にあたってたしかめたわけではありませんが、よく知られている本著の特徴の一つに、<くに>をあらわす文字が四種類も書き分けていることが指摘されています。

<くに>をあらわす漢字は、ぜんたいで72回も書かれています。そのうち、国(くにがまえに玉)は11回、國(くにがまえに或)は4回、くにがまえに王と書いているのが1回、そしていちばん多く56回にも及んで書いているのが、くにがまえに民という文字で、口の中に<民>をかいて<くに>を表現しているのです。

くにがまえに<民> とかく文字が、中国本家の漢字に実在するのか、あるいは圀(くにがまえに八方)という文字のように日本でつくられた国字なのか、わたしにはわかりません。ただ、文字から推察できるとすれば、日蓮は<くに>の字を書きわけることによって、<くに>とは何か、<くに>の何を守らねばならぬのか、時の執権や支配層、あるいは僧侶たちに訴えたのでないか、ということです。これを見え透いた小細工とうけとめるひともいます。しかしそれは現在の自由社会から考えてのことで、武力にものをいわせた統治下にあっては、ハッタリどころか、まさに剣に文字で立ち向かうことであり、いのちがけの上書だったことは疑いえません。

花森安治は「国をまもるということ」で、あえて<くに>という表記を46回もつかいました。日蓮は56回もくにがまえに<民>をいれて、<くに>とよませました。民の暮しを守ってこそ<くに>であり、王や土地が<くに>を成立させているのではない、それを文字によって、二人は示唆したようにおもえます。

余談ですが、花森安治は日蓮を祖師としてうやまう本門佛立宗という宗派の信者の家庭に育っています。子どものころは祖父につれられて参詣し、お寺のこども会で活躍したと伝えられています。拙著『花森安治の編集室』にもかきましたが、花森は日本の宗教者のなかでは日蓮を高く評価していました。

明治以降の国家神道教育のあやまちもあって、宗教(寺院)はうさんにおもわれがちです。しかし佛教が日本人の道徳規範や精神性にあたえた影響は大きく、日蓮の他宗攻撃にたいする好悪はあるにしろ、花森の著作のなかで「国をまもるということ」「見よぼくら一銭五厘の旗」の二編は、日蓮の法華経思想につらなる国家諫暁の文章である、とわたしはとらえています。

花森のナマのことばを、わたしへの戒めとして、この文章の最後にひいておきます。いまどき、こんなにも強い言葉を発せるジャーナリストがいるとは、わたしには思い浮かびませんから。

「あまっちょろい、きざな文章を書いていて、それで世の中が動くとおもうのか。相手の肺ふをえぐるということは、ピストルにはできんぞ。言葉はそれができると、ぼくは思う。(中略改行)
武力は、青春を投入し、欲望も投入し、それひとすじでやっている。おもしろおかしく世の中を渡って、しかも剣よりも強いペンを作ることができるとおもうのか」


2013年1月18日金曜日

徳川夢声の問答有用②


前回、このブログで紹介した『花森安治集 マンガ・映画、そして自分のことなど篇』には、徳川夢声との対談で花森がいった言葉が、抜粋され転載されていました。本篇にかぎったことではありませんが、花森のしごとを発掘するのは容易ではなく、ことに暮しの手帖以外のしごとは整理されておらず、編者の大へんな苦労と努力に、あらかじめ敬意と謝意を表させていただきます。


徳川夢声の問答有用② 朝日文庫カバー

書 名 徳川夢声の問答有用② 朝日文庫
著 者 徳川夢声
装 画 横山泰三
カバー 多田進
発行日 昭和59年10月20日
発行者 初山有恒
印 刷 凸版印刷株式会社
発 行 朝日新聞社
発行所 東京都中央区築地5−3−2
判 型 文庫 本文296ページ
定 価 420円


『徳川夢声の問答有用』は、各界の有名人をまねいて縦横に語らせた週刊朝日の名物連載で、昭和26年に始まっています。対談の名手とたたえられた元活動弁士の夢声に話を聞いてもらえることは、存在が認められたことを意味し、ゲストにとっては喜びであり名誉であったようです。花森安治は昭和28年5月10日号に登場しています。もういちど読みかえしてみました。

というのも最近刊の『花森安治集』をよみ、文中いささか懸念すべき「言葉」を見つけたからです。対談を抜粋したところの見出しに、太いゴシック体で「 日蓮のハッタリに学べ」とありました。はて、ふたりの会話の中に、そんなセリフがあっただろうか——抜粋された花森の発言には、ありません。そこで全文にあたってみることにしたのでした。

結果をさきに申せば、全文をくまなく読んでも、ありません。見出しにあった「日蓮のハッタリに学べ」という言葉は、どこにも認めることはできませんでした。それは花森の言葉ではなく、むろん夢声の言葉でもなかったのです。ふたりは日蓮の優れた表現力を話題にはしていましたが、日蓮をハッタリよばわりなど、一度たりともしていません。その言葉は、編集者じしんの日蓮にたいする偏見にすぎないのではないでしょうか。

日蓮のハッタリに学べ——そんな不遜かつ軽薄なことばを花森が吐くとはおもえませんが、たわむれにせよ花森がそれを言ったとすれば、天に唾する行為です。自分の存在としごとも「ハッタリ」であると、花森じしんが公言したにひとしくなるのですから——。花森と夢声が口をそろえて賞賛したのは、日蓮のことばの力、たくみな布教表現であって、ひとをあざむかんがための詐術でなかったことは明瞭。なによりかより、ハッタリに学ぶなんて、そんなケチな人生、さみしすぎるじゃありませんか。ざんねんにおもいました。

ところで小生は、夢声との対談中、花森のつぎの発言に注目しました。『花森安治集』では採用されていませんでしたから、僭越ながら下に引用転載して供します。


《週刊朝日にしても文藝春秋にしても、その号その号によって、内容は全部ちがう。つまり、新製品なんだから、毎号、新鮮な感じを出さなくちゃうそです。(改行)しかるに、週刊朝日の題字といい、文藝春秋の題字といい、いつも変っていないでしょう。何十年間、酒屋のこもかぶりみたいな字をつかっとる婦人雑誌もあるしね(笑)アメリカあたりの雑誌を見ると、ときどき題字をかえてる。》


かつて小生は、このブログでも、花森が『暮しの手帖』のロゴをひんぱんに変えていることを紹介してきました。上の発言のなかにも、花森安治の装釘の考え方の一端が、読みとれるのではないでしょうか。


【つけたり】徳川夢声の対談集は、昭和27年に朝日新聞社から順次単行本化され、ついで昭和59年に文庫化もされた。その後、深夜叢書社やちくま文庫も再編刊行した。おととし平成23年暮に発行された『KAWADE夢ムック 花森安治 美しい「暮し」の創始者』に、花森安治との対談のみ全文再録されている。

KAWADE夢ムック 花森安治 美しい「暮し」の創始者 2011

2013年1月13日日曜日

花森忌にささぐ

東京の正月三が日はよく晴れた。
ことに二日はおだやかな陽気にめぐまれ、いつものように青山のかえり芝により、家族と共に花森家の墓前に詣でた。

御佛前には遺影がかざられており、ことしもまた新しい三冊の本がお供えしてあった。きょねん出た花森安治の著作集。なくなってから三十有余年をへて、いかにも遅しのきらいがある。しかし上梓されたことは御家族を安堵させたであろうし、また刊行したかつての部員たちもそれらが佛前に捧げられ、大いに誇らしくおもったことであろう。泉下の編集長も満足しているとおもいたいけれど。


社会時評集 花森安治「きのうきょう」 カバー

書 名 社会時評集 花森安治「きのうきょう」
著 者 花森安治(1911.10.25ー1978.1.14)
装 本 新野富有樹
発行者 中村文孝
発行日 平成24年3月5日
発 行 LLPブックエンド
発行所 東京都千代田区神田錦町3−11−8武蔵野ビル
発 売 株式会社JRC
印 刷 ティーケー出版印刷
判 型 A5判変型 並製 本文176ページ
定 価 1500円(税別)




花森安治集 衣裳・きもの篇 カバー

書 名 花森安治集 衣裳・きもの篇
著 者 花森安治(1911.10.25ー1978.1.14)
装 本 吉原順一
題 字 小榑雅章
発行者 中村文孝
発行日 平成24年8月5日
発 行 LLPブックエンド
発行所 東京都千代田区神田錦町3−11−8武蔵野ビル
発 売 株式会社JRC
印 刷 モリモト印刷
判 型 A5判変型 並製 本文302ページ
定 価 1800円(税別)



花森安治集 マンガ・映画、そして自分のことなど篇 カバー

書 名 花森安治集 マンガ・映画、そして自分のことなど篇
著 者 花森安治(1911.10.25ー1978.1.14)
装 本 吉原順一
題 字 小榑雅章
発行者 中村文孝
発行日 平成24年11月20日
発 行 LLPブックエンド
発行所 東京都千代田区神田錦町3−11−8武蔵野ビル
発 売 株式会社JRC
印 刷 モリモト印刷
判 型 A5判変型 並製 本文280ページ
定 価 1800円(税別)


【あらずもがなの二言三言】
うえの三冊をよんでいて、小生がおもいだしていたのは「かんこうすいどう」ということばであった。それは昨年なくなった藤本義一さんが、後進の指導にくりかえしつかったことばで、耳になじみやすく、小生ごときボンクラも一ど聞いただけで憶えた。

漢字でかけば「観考推洞」——。
藤本は、観察・考察・推察・洞察の四文字をとって「かんこうすいどう」と憶え、アタマにたたきこめと教えた。観察とは、よく見ること。考察とは、よく考えること。推察とは、その因果にまで考えを深めること。そして洞察とは、目のまえの現象のおくにひそむ真理を見ぬくこと。それがほんとうの「考える」という行為だと藤本はいった。花森安治がかいた文章は、どれも花森の「かんこうすいどう」のあとが見てとれる。

おととし花森安治生誕百年のこと、東京新聞からたのまれて、伊那谷にくらす小生も寄稿の僥倖にめぐまれた。担当者から、花森のことばをひいて書いてくれるとありがたいとの要望があり、いまの時勢をかんがえて引用したのが「きのうきょう」に挟まれていたつぎの一節である。

《不景気を切りぬけたかったら、ほんとに親切な品を作ることだけを考えなさい。そういう商品だけが、過去の不景気を切りぬけてきたのだから》

——じぶんを目立たせようとするだけのはったりで、こんなこと書けるはずもなかろう。花森編集の『暮しの手帖』には、つねに親切な気持がながれていた。

斜に構えずに、正面から花森安治の文章にむかってほしい。クールビズなんて言っても、それは半世紀以上もむかしに花森が訴えつづけていたことであった。暮しをよくしたい、守るにあたいする暮しを身につけたい、そんな花森のあふれる思いが上の三冊にもこめられている。ことばは平易にして簡明、よめばわかります。

一月十四日は花森安治の祥月命日。東京は大雪にみまわれた。