2015年12月6日日曜日

花森安治 calendar 2016

タテ515×ヨコ300ミリ 13枚つづり


ことしもまた新しい花森安治カレンダーをちょうだいした。
『暮しの手帖』の表紙を飾ったときよりも大きく、ていねいに印刷されており、ハッと目をひく。うつくしい。瞬間こころが躍る。深く感謝しています。

表紙につかわれているのは、1970年 2月発行『暮しの手帖』2世紀第4号の表紙。どこかイスタンブールの街なみをおもいおこさせる。けれどそこに描かれたかわいい花々から、小生の連想は、江間章子『花の街』の歌にとんでしまう。


七色の谷を越えて
流れて行く 風のリボン
輪になって 輪になって
かけていったよ
歌いながら かけていったよ

美しい海を見たよ
あふれていた 花の街よ
輪になって 輪になって
踊っていたよ
春よ春よと 踊っていたよ

すみれ色してた窓で
泣いていたよ 街の角で
輪になって 輪になって
春の夕暮れ
ひとりさびしく ないていたよ


かつてこのブログで、花森が装釘した川奈美智子著『こんな日こんなとき』を紹介した。そこに小生は、川奈美智子についてよくわからない、と書いた。じつは川奈は江間章子とおなじ生年で、ともに駿河台女学園に学んでいる。そして江間は大政翼賛会で花森とともに国策に協力従事していたのであった。江間は戦後、翼賛会で働いた過去をふかく恥じていたにちがいない。ほとんど語らなかった。

小生が暮しの手帖社に入社してまもなく、新人のために歓迎会を中華レストランの王府でひらいてくれた。いまだ忘れ得ないのは、新人を代表させられ、余興に歌をうたわされたことだ。カラオケなんかない時代である。

小生はひとつ覚えの『夏の思い出』をアカペラでうたった。江間章子の代表作であることは知らなかった。歌い始めたら宴の空気がいっきに沈むのを感じた。やはり場違いだったか、と小生は「誤解」した。——そうではなかった。小生は、花森の過去に、なにも知らずに侵入していたのであった。

「ひとの痛みをわかる人間であれ」
——花森のそれが口ぐせであった。
沖縄の人々の、からだとこころから、戦争の傷と痛みは、いまだ消えていない。米軍基地があるかぎり、消えることはないであろう。


<ミニカレンダー>
タテ150×ヨコ150ミリ 14枚つづり

ことしは卓上版にかえて、上掲のような小さいながら壁に掛けるミニカレンダーが用意された。小さいから掛けられる場所がかくだんに増す。ありがたい。
花森安治カレンダー2016についてお問合せとお求めはグリーンショップまで。下記をクリックすると花森安治グッズのコーナーです。
http://shop.greenshop.co.jp/i-shop/category_l.asp?cm_large_cd=25



2015年10月25日日曜日

林達夫著作集5 政治のフォークロア

林達夫著作集5 函オモテ


書 名 林達夫著作集5 政治のフォークロア
著 者 林達夫(1896−1984)
装 釘 原 弘
発行者 下中邦彦
発行日 昭和46年2月25日初版第1刷
発 行 平凡社
発行所 東京都千代田区三番町5
印刷所 東洋印刷株式会社
製本所 和田製本工業株式会社
判 型 B6判 並製函入り 本文370ページ
定 価 1800円(初版第13刷)


《かつてファシスト教育理論家の一人ガブリエリは、「ファシズムは一つの新しい教育理論である」と言った。そのわけはファシズムは「国家によって教育される人間」という新しい型の教育理想を完全に実践に移した革新的理論であり、かかることは従来の旧い伝統と偏見とに充ちた痛風的な教育の到底なし得なかったことだというのである。》

《人が克服しえないと考えたこの積弊を打破したところに、(即ち自由主義的、ブルジョア民主主義的教育を一掃して、教育を完全に「国家」に、ブルジョアジーの独裁に公然と従属させたところに、)彼はファシスト教育の功績を認めているのだ。》

《だが、(略)彼のいわゆる「国家によって教育される人間」とは事実においては「強力によって片輪にされる人間」のことであり、「支配階級の完全な道具にされる人間」のことである。》

《かかる片輪の道具=人間を作る教育がもし「理想の教育」であるならば、人間の教育は警察犬や軍馬の「訓練」と少しも異なるところがないだろう。》


うえの引用は、本書に収載された「イタリア・ファシズムの教育政策」と題する評論からで、解題によれば初出は岩波書店昭和7年11月に発行された『教育』とあります。つまり今から83年もむかしに書かれています。しかし、あたかも現政権下の日本に起こりつつあるような、いかにも身につまされるような気分に、あなたも、なりはしませんか。

——わたしに林達夫の存在と文章を意識するきっかけを与えてくれたのは、花森安治でした。まだ二十歳代であったわたしは、『暮しの手帖』の文章に日夜どっぷり浸っているうち、そのとりすましたようなお行儀の良さがどうにもがまんできなくなり、ある日の編集会議で「明治人の文章」というようなテーマでプランを出し、一例として北村透谷の文章をあげて音読したことがありました。

そのとき花森は、「 そうだなあ、キミなんか、ハヤシタップを読んだほうがいいんじゃないか。ハヤシタツオは若い人にもっと読まれていいとボクなんかおもうけどな。読んでごらん」と笑いながらこたえ、プランはもちろん却下でした。

きょう10月25日は、花森安治の誕生日。生誕104年にあたります。
その記念の日に、なにか花森にまつわることを書いてしのびたいとおもい、いろいろ考えあぐねましたが、けっきょく林達夫にゆきついてしまいました。編集会議のときの花森のおだやかな声が、どうしてもよみがえるのです。

現政権は、若者たちの活字離れのスキをついて、自由な学問と言論、教育を蹂躙しようとしています。SEALDs への対抗策として、教育への政治圧力はさまざまな手段と方法でさらに露骨になるでしょう。いまのアベ政治は、まさに戦前のファシズムに回帰しようとしているとしか見えません。

——花森の『暮しの手帖』の文章は、ただ平易で簡明なばかりでなく、しっかりした思想と哲学によって裏打ちされ、リファインされていました。その文章作法を培うためのいわば肥料として、花森は林達夫の文章をすすめてくれたのだとおもえます。ここに紹介したのは、林達夫の「爪の垢」にすぎませんが、これだけでも煎じて飲む価値はありそうです。ジャーナリズムにかかわる人々には、林達夫がのこした文章を、幅広く読んでほしいものです。クレバーな為政者は、つねに過去の歴史のやり口に学んでいます。


【蛇足】いま古本業界では全集物の価格がたいへん下がっています。平凡社『林達夫著作集全6巻・別巻書簡1』は、学生のお小遣いで買えるお値打ち全集。早い者勝ちです。


2015年9月17日木曜日

樹をみつめて

2006



書 名 樹をみつめて
著 者 中井久夫(カバー写真とも)
発行日 平成18年9月20日
発 行 みすず書房
発行所 東京都文京区本郷5−32−21
印刷所 本文 三陽社 扉・表紙・カバー 栗田印刷
製本所 青木製本所
判 型 四六判 上製カバー 本文268ページ
定 価 2800円+税



《戦争を知る者が引退するか世を去った時に次の戦争が始まる例が少なくない》

《今、戦争をわずかでも知る世代は死滅するか現役から引退しつつある》

《戦争はいくら強調してもしたりないほど酸鼻なものである。しかし、酸鼻な局面をほんとうに知るものは死者だけである》

《時とともに若いときにも戦争の過酷さを経験していない人が指導層を占めるようになる。長期的には指導層の戦争への心理的抵抗が低下する。その彼らは戦争を発動する権限だけは手にしているが、戦争とはどういうものか、そうして、どのように終結させるか、その得失は何であるかは考える能力も経験もなく、この欠落を自覚さえしなくなる》

 ——その結果、
きょう平成二十七年九月十七日、参議院特別委員会でまた、わが国の憲政史上にひときわ大きな汚点がしるされた。安倍政権は、主権者である国民の声を無視して、戦争法案を強行可決した。


上の《》にくくった文節は、中井久夫著『樹をみつめて』におさめられた「戦争と平和についての観察」からの引用です。初出は平成十七年九月、すなわち中井先生はすでに十年前、戦争を知らない世代がおこすであろう愚挙を予見されていたことになります。中井先生が予見できたのは、特殊な予知能力によるものでは、むろんありません。学者としての誠実な探求と知見をとおして、古今東西につうじる<真理>を導きだされたのです。中井先生のこのエッセイは、政府与党が公述人として招致した曲学阿世の徒の無知蒙昧ぶりとは、まさに対極にあります。学問とは何かがわかります。

わたしは昨年の夏、このブログでNHKの報道姿勢の偏向を問いました。しかしこの一年の政府偏向ぶりはひどくなる一方で、昨夜からきょうにかけての報道はその頂点に達したとおもえました。とりわけ政治部の田中泰臣記者の政権阿諛追従ぶりには、腹立たしさを通りこして、憐れすらもよおしました。だまし討ちを謀った鴻池委員長とともに、その名を末代まで辱めることに、はたして気づいているのでしょうか。

こんかいの戦争法案が、いったいだれのためか、だれを守るものか、この中井先生の著述には的確にしめす一節がひそんでいます。

《イラク戦争においても、米軍がバグダッドに迫ったときには兵站線が伸びきって補給が追いつかず、飲まず食わずに近い状態であったという》

わたしたち日本人は、太平洋戦争の敗因のひとつは兵站(武器弾薬および食料補給)の枯渇にあり、米軍の豊富な物資にまけたと思い込んでいます。つまりそれが先入観としてあって、米軍への後方支援(兵站)がさも容易であるかのように錯覚させてはいないでしょうか。いまの米軍はちがうのです。終りのない戦いで、モノ・カネ・人がたりません。

政府は兵站の容易ならざることを知っています。だからこそ「非戦闘地域にかぎる」という文言を法案から外し、国民の目をあざむいて、「後方支援」というあいまいな名目で、自衛隊をどこにでも派遣できるようにしたいのです。

この一事をもってしても、こんかいの法案が、日本の安全保障であるかのようにみせかけた、米軍のための戦争法案であることが明白です。イラク戦争の時、NHKの報道記者がフリーランスにたよらず、みずからが戦場に立って取材していれば、「後方支援」のまやかしがすぐにわかったはずです。上からああ言えこう言えと指示されて、台本どおりに報道するのならば、それはジャーナリズムではありません。記者という職責への侮辱です。田中記者は自らに問い、もっと深く悩むべきです。


きょうはこころがざらついて、よけいなことを書きすぎた気がします。要は、中井先生のこの本を、みなさんにお薦めしたかったのです。かつて中井先生はわたしに、花森安治の編集手法の特質は「親試実験」にあった、と指摘してくださいました。ひとのことばを鵜呑みにするのではなく、みずから確かめることが大事ということです。なにかおかしいと感じたら、なぜだろうと考える。まずはそこから始まるのでしょう。奥田くんの公述に感動したなら、集団催眠にかかっているかのような政府与党のおかしさを、いったいなぜなのかと疑いつづけるべきでしょうね。わたしのおもうところ、戦争法案をあくまでも違憲ではなく合憲と主張しなければ、国会議員としての「法的安定」を否定することになるからでしょう。

十九日未明、戦争法案は参議院でも自民公明与党らの賛成多数によって可決され、法律として成立しました。この瞬間、政府与党だけでなくすべての国会議員は、憲法違反者の集団と化したのではないでしょうか。この状態を正すのが司法に課せられた役割です。はたして司法は、憲法を遵守するでしょうか。

【日本国憲法】
第98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。


「安全保障関連法に反対する学者の会」
9月20日 学者の会抗議声明100人記者会見
https://www.youtube.com/watch?v=QkIeX62Ywfc&feature=youtu.be 




2015年8月6日木曜日

はだしのゲン

1975

書 名 はだしのゲン 第一巻青麦ゲン登場の巻
著 者 中沢啓治(1939−2012)
解 説 尾崎秀樹(1928−1999)
発行人 今田 保
発行日 昭和50年5月12日(初版)
発 行 汐文社
発行所 東京都千代田区外神田2−3−2
印刷所 東銀座印刷出版株式会社
判 型 B6 並製カバー 本文276ページ
定 価 480円(但し初版発行時)


 「唐澤クン! 机の上でちゃんと読め!!」
——花森安治のするどい叱声に、わたしは跳び上がりそうになった。花森はそんなわたしにおかまいなく、もう背を向けて、歩きさっていた。その時わたしは『はだしのゲン』を机の下にかくすようにして、無我夢中で読みふけっていたのだった。

四十年前の夏、暮しの手帖編集部でのことだった。
読者感想文のページ「私の読んだ本」担当者の机のうえに、つぎの号で紹介される本がつみあげられており、その中の一冊が中沢啓治著『はだしのゲン』であった。しょうじきいえば、わたしはすこぶる怪訝であった。マンガなんか本ではない、と浅はかな考えをしていた。

当時、マンガブームであった。わたしとおなじ年ごろの男たちが、電車の中でアタッシュケースから週刊漫画誌をとりだし、はじらうふうもなく読みふける光景を、わたしは苦々しくおもいながめていた。オレはそんなみっともないマネはしないぞ!

そんなわたしだったから、しかも勤務時間中であり担当でもなかったから、『はだしのゲン』がどんな内容なのか知ろうとして、ついつい机の下にかくすようにして、こっそり読みはじめたのだった。目がクギづけになった。ページをめくる手が止まらない。我を忘れて読んでいたとき、通りすがりの花森がわたしのその卑屈な姿を目にとめて言ったのだ。

わたしは恥ずかしく、机の上において読み続けることはできなかったけれど、すぐに書店で刊行されていた4巻まで買いもとめ、うちで正座して読みとおした。花森の「ちゃんと読め」の叱声が耳にのこり、なにより著者中沢啓治にたいして、もうしわけないとおもう気持があった。


暮しの手帖 Ⅱ世紀38号 「私の読んだ本」のページ


感想文を投稿した原孝子さんは、末尾にこう書いている。
《私は、「はだしのゲン」はマンガでしか描かれなかったと思う。井伏鱒二の「黒い雨」におとらぬ作品だと思う。この「はだしのゲン」は、わが家ではじめて親と子の「共有」になった本といえる。》

それから四十年、当時は独身だったわたしも二児の父親になっている。愚息らも小学生になると、すすめたわけではなかったが、ふたりともかってに本棚からとりだして、いっしんに読んでいた。わが家でも父子ではじめて「共有」する本になった。

子どもは深く感動すると、あたかも放心しているかのように、しばらく無言になることにそのとき気づいた。今夏『はだしのゲン』は再刊されるという。親子で読みついでいってほしい本である。国民を欺こうとする為政者にとって、いちばんつごうの悪いものは、いつの世も<真実>である。


カバー裏 1975年当時の著者像と談話



【もうひとこと】
残念なことにわたしたちは、あくまで立憲主義を否定する安倍政権下で戦後七十年をむかえ、広島に原爆が投下された日をむかえることになった。しかし、平和を築き保つことは、もとよりたやすいことではない。「ペンは剣よりも強し」を信じ、わたしもあきらめない。志をおなじくする人々は、たくさんいる。自民党や公明党にだって、きっといてくれると信じたい。良心にしたがおうとせず、強者に言われるまま生きるのは、それは自ら人権を放棄した<奴隷>にすぎない。

花森安治の声が聞こえる。「日本国憲法をちゃんと読め!」

第九十九条
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、
この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。


2015年7月2日木曜日

70seeds『戦争中の暮しの記録』



書 名 戦争中の暮しの記録 保存版
編 者 暮しの手帖編集部
発行人 大橋鎭子
発行日 昭和44年8月15日
発 行 暮しの手帖社
発行所 東京都中央区銀座8−5−15
印刷所 大日本印刷株式会社
判 型 B5判 本文294ページ
装 本 布クロス上製 角背ミゾつき型押し カバー ビニール掛 
定 価 850円(但し初版第1刷時、現在2378円)


安倍内閣による憲法違反の解釈変更によって、集団的自衛権行使容認の閣議決定をおこなってから一年。今月十五日には安全保障関連法案、通称「戦争法案」を衆議院特別委員会で採決する方向にあります。無法者の蛮行に胸のつぶれるおもいです。


70seeds というサイトがあります。
戦後70年の「知らなかった」と出会うWebメディア——と表題にしめすとおり、さまざまな角度から日本の戦後七十年をさぐる一年間限定の企画なのだそうです。そこに6月30日、『戦争中の暮しの記録』制作秘話ー「暮しの手帖」の70年が公開されました。わたしが敬愛してやまない編集部の大先輩、河津一哉さん(85歳)が『戦争中の暮しの記録』と師の花森安治について、深いおもいを、おだやかですがつよく、たしかに語っています。(下記をクリック)
https://www.70seeds.jp/kurashi-no-techo/

時宜をえた企画です。インタビュアーの取材がみごとです。ざらついたこころに今あたたかく届きます。無法者に負けてはいけないと、わたしたちを静かに勇気づけてくれます。ぜひ、ごらんください。



2015年4月16日木曜日

宮崎静夫さん

宮崎静夫 「異国の丘」2004 油彩


おととし平成二十五年三月、「戦中・戦後の戦病者〜二度の除隊を経て花森安治のあゆみ〜展」がひらかれました。わたしは暮しの手帖編集部の大先輩、河津一哉さんとともに、東京九段下の<しょうけい館>を訪れました。時をおなじくして九段下の<九段ギャラリー>では、「平和と人権を考える絵画展2013 元満蒙開拓青少年義勇団・シベリヤ抑留者宮崎静夫の世界展」もひらかれていました。

おもいがけない遭遇でした。さかのぼること三十五年まえ、花森安治がなくなった年のことです。「暮しの手帖」Ⅲ世紀55号に「今年もまた夏がきた」と題する異色の反戦記事が掲載されましたが、じつはそれを企画したのが河津さんであり、反戦画家として紹介されたのが宮崎静夫さんだったのです。


『暮しの手帖』Ⅲ世紀55号1978 (見出し文字 大橋鎭子)



展覧会の開催はもとより、会場での出会いを申し合わせたわけではありません。じっさい地下鉄の階段をあがって外に出たとき、河津さんははじめて宮崎さんの展覧会を知ったのでした。熊本からの宮崎さん、東京杉並からの河津さん、そして長野からの小生、その三人が、暮しの手帖という雑誌の縁によって、奇しくも三十五年ぶりに出会いました。


「宮崎静夫の世界展」リーフレット


宮崎静夫さんは昭和十七年、十五歳にして満蒙開拓青少年義勇軍に志願しました。敗戦によりソ連軍の捕虜となってシベリヤへ送られ、四年間も抑留されました。そこで宮崎少年が体験した光景は、平和であればごくふつうに暮せたであろう人々が、戦争ゆえに演じてしまう<地獄>でした。

ふるさとに帰る日を夢みながら、シベリヤ抑留でなくなったのは、極寒の自然環境と過酷な労役による傷病死だけではありませんでした。精神錯乱、自死、ささいなことから起こる捕虜同士のなぐり合い、リンチ、わずかな食料をめぐる殺し合いが、まれではなかったのです。だれにも止められず、眼を背けているしかなかった・・・それが地獄で生きぬくことでした。その記憶が復員した宮崎さんに、絵筆をとらせる動機となりました。

死者たちの無念を伝えなくてはならぬ。
二度と戦争をおこしてはならぬ 。

宮崎さんがかく絵は、どれも明澄さと陰鬱さが同居しています。陰鬱さをもたらしているのはリアルに描かれた兵士と髑髏——。 明澄さをもたらしているのは、どこまでも蒼く澄んだシベリヤの空と透きとおった風ではないかとおもえます。その下で、戦争という愚かな人間のいとなみがくり返され、そこに吹く永遠の風がいまも挽歌をうたいつぐ——。

「わたしがかく絵は売れません。でも、わたしにはこういう絵しか描けないのです」という宮崎さんに、小生が「シベリヤでなくなった人たちの魂の声がきこえてくるような気がします」とこたえたとき、花森安治のおもかげに似た宮崎さんの眼に、涙がにじみました。

死者と向き合い、その魂と語り合い、描くことを使命として選ばれたのが宮崎静夫という画家であり、その画業を支えるために選ばれたのが妻の久子さんであったとおもえます。宮崎静夫は美大を出ていません。海老原喜之助の弟子となり、おなじ弟子であった久子さんと結ばれたのでした。

編集者河津一哉はこう記事に書いています。
《戦争の記憶がしだいに風化してゆく時の流れの中で、宮崎さんは、静かに、鋭く、生と死をかきつづける。それは過去にとらわれているのではない。そこに描かれるのは、むしろ、未来のための、奥深い呼びかけであり、人間のやさしさ、生命のいとおしさである。》

去る四月十二日、わたしたち戦争を知らない者のために、戦場の死者の魂を描きつづけた画家宮崎静夫は、悲しく透きとおった風となって去りました。享年 八十七。

合掌



2015年3月24日火曜日

新版きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記

新版きけわだつみのこえ カバー 1995


書 名 新版 きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記
編 者 日本戦没学生記念会
発行者 安江良介
発行所 岩波書店
発行日 1995年12月18日 第1版
判 型 文庫
価 格 700円(税込・発売当時)


『戦争中の暮しの記録』とあわせて読んでほしいのが上掲書です。前者が、戦時を生きのびた人々の手記であるのに対して、こちらは学生に限られてはいますが、戦場であたらいのちを失った若人の手記をあつめています。<わだつみ>とは海神をいみする古語。さきごろフィリピン沖にしずむ戦艦武藏が発見されたのも、わだつみからの警鐘のようにおもえます。本書におさめられている一通の手紙を、以下に引用し紹介させていただきます。


《この手紙、明日内地へ飛行機で連絡する同僚に託します。無事お手元に届くことと念じつつ一筆を執ります。

目下戦線は膠着状態にありますが、何時大きな変化があるかも知れません。それだけに何か不気味なものが漂っています。生死の境を彷徨していると、学生のころから無神論であった自分が今更のように悔まれます。死後、どうなるか? といった不安よりも現在、心の頼りどころのない寂しさといったものでしょうね。その点、信仰厚かった御両親様の気持が分るような気がします。

何か宗教の本をお送り願えれば幸甚です。何派のものでもいいのです。何派のものでも期するところは同じだと思います。たとえ一時的でもいい、心の平衡が求められればいいのです。

この土地の言葉はタガログ語です。この点、外語で支那語を専攻した自分にはちょっと取りつきにくいですが、いくらか土人の言葉にも馴れました。言葉が分ると自然と人情が湧いて来るものです。皮膚の色が変っても人情上は変りありません。母上がいつかおっしゃられたように無益の殺生は部下にも堅く禁じております。

マニラ湾の夕焼けは見事なものです。こうしてぼんやりと黄昏時の海を眺めていますと、どうして我々は憎しみ合い、矛を交えなくてはならないかと、そぞろ懐疑的な気持になります。避け得られぬ宿命であったにせよ、もっとほかに打開の道はなかったものかとくれぐれも考えさせられます。

あたら青春をわれわれは何故、このような惨めな思いをして暮さなければならないのでしょうか。若い有為の人々が次々と戦死していくことは堪らないことです。

中村屋の羊羹が食べたいと今ふっと思い出しました。
またお便りします。このお便りが無事に着けばいいのですが・・・・
兄上、姉上、そして和歌子(姪)ちゃんにくれぐれもよろしく。
早々不一

昭和二十年三月五日

父上様 母上様                 瀬田萬之助 》


瀬田萬之助さんは、三重県で大正12年にうまれました。東京外国語学校支那語貿易科に在学三年後、入営。この手紙を同僚に託したわずか二日後、ルソン島で戦病死しています。享年23。「英霊の御霊に哀悼の誠をささげる」なんて紋切型のセリフを吐いて戦死を美化する者らに、瀬田さんたち若人の無念は、永遠にわからないでしょう。


【あらずもがなのひとこと】
創価学会を支持基盤とする公明党が、平和や福祉の政党ではなく、赤ずきんをかぶったオオカミであったことが判然とした今、日本の他の仏教者たちも、いままた「八紘為宇(八紘一宇の原典)」を公然とポスター掲示する神社(国家神道)に、恥じらいもなくひざまづくような気がする。生死をあきらめることを一大事ととく仏教者であれば、外国へ出かけて他国のためにも武器使用をみとめる集団的自衛権行使に賛成か反対か、態度をはっきりさせるべきだろう。

「たすけんと思ふ心のさきだてて にくまるゝともわらはるゝとも」
——長松清風


<追記 2015/05/27>
真宗大谷派(東本願寺)は5月21日、宗務総長名で「安全保障関連法案に対する宗派声明」において、強く反対の意を表明した。

憲法の「政教分離」をカン違いしている者がいて、宗教者が政治に口出しするなとの非難誹謗もあるが、宗教者といえども参政権は認められており選挙権も与えられている。 真宗大谷派の声明は、宗教者として人間として、しごくまっとうな主張である。



2015年3月3日火曜日

「戦争を知らない子供たち」

花森安治の編集室 カバーおもて


書 名 花森安治の編集室
著 者 唐澤平吉
装 釘 平野甲賀
発行人 中村勝哉
発行日 平成9年9月30日初版
発 行 晶文社
発行所 東京都千代田区外神田2−1−12
印 刷 堀内印刷
寸 法 192ミリ×136ミリ 本文269ページ
定 価 本体2100円


ブログに拙著をとりあげることはためらわれます。自慢げだから——
しかし、こんどばかりは、そうもいっておれません。花森安治のことばを、あらためて考えてほしいのです。たとえばこんなことをいって、とても怒っていました。拙著からひきます。


《あの「戦争を知らない子供たち」という歌は、いったいなんだ。戦争が終わって生まれたから、戦争を知らなくてもいい、というのか。いいかげんな歌をうたうなっていうんだ。戦争を知らなければ、戦争というものがどういうものか、それを知るべきなんだ。知らないものほど、戦争の愚劣さを知ろうとしなくちゃダメなんだ。戦争を知らないものは、知る権利と義務がある。そうでなくて、どうして反戦なんだ。どこが反戦なんだ》


ごぞんじのように中谷防衛大臣は、2月27日の閣議後記者会見で、防衛省設置法に「文官統制」が規定されたのは、戦時中の軍部独走の反省からではないかと記者に問われ、「そういうふうには私は思わない」とこたえました。そこで記者がかさねて文官統制導入の理由や経緯についてたずねると、昭和32年生まれの大臣は「私はその後生まれたのでよく分からない」とこたえました。防衛担当閣僚の中谷さんも「戦争を知らない子供たち」の一人であった、というわけです。

中国や韓国が日本を批判するとき、もっぱら「歴史認識」という抽象的なことばをつかいます。しょうじきなところ、あまり感じはよくありません。中国や韓国が自国本意の歴史教育をしていることを棚に上げています。それでいて「日本人は自国の歴史すらよく知らないようだね、学校で先生たちはなにをおしえているのかな」と嘲笑しているようなニュアンスを言下にふくませています。

たしかに高校では日本史は選択科目で、履修しなくてもいい。選択しても、授業で古代史と現代史の学習にわりあてられる時間はすくない。だから防衛大臣はウソの答弁をしたのではなく、すなおに「よく分からない」とこたえたのでしょう。つまり歴史の知識に乏しいことを、みずから世界にむかってあきらかにしたにすぎません。リンカーンではないけれど、“Every man over forty is responsible for his face.”——いい気なものですね。

とはいえ閣僚たる者、防衛大臣たる御仁がこんな発言をして、政府のだれ一人として羞じないのはなぜでしょうか。安倍内閣には、平和憲法をまもろうとする皇室を、こころよく思っていないふしがあります。あるいは愚弄しているように思えてなりません。たとえば2月23日、50歳の誕生日をむかえられた皇太子殿下のおことばを、ふつつかながら下に引かせていただきます。


《私自身,戦後生まれであり,戦争を体験しておりませんが,戦争の記憶が薄れようとしている今日,謙虚に過去を振り返るとともに,戦争を体験した世代から戦争を知らない世代に,悲惨な体験や日本がたどった歴史が正しく伝えられていくことが大切であると考えています。》


殿下のおことばから十日もたたないうちの中谷さんの発言は、閣僚として、失言というよりも、いかにも子供じみていませんか。これでは中国や韓国が、日本の政治家の不勉強をさげすんでもやむをえない、と思わざるをえません。同僚の法相をみならって、法律をよくしらべ、答弁のしかたを勉強したら、と皮肉りたくもなります。道義にもとることでも「知らなかった」とこたえて罪を逃れられることくらいは教えてくれるでしょう。「戦争を知らない閣僚たち」の厚顔無恥は、もはやとどまるところがないのでしょうか。

ところで、拙著がでたあと、「戦争を知らない子供たち」の歌についての花森のことばは、波紋をなげかけました。作詞した北山修さんや作曲した杉田二郎さんたち関係者には、ヒット曲として親しまれていただけに、不意打ちをあたえたようです。テレビのトーク番組で、杉山さんがこの歌について、釈明めいたことを言わされておりました。それから十八年をへて、防衛大臣からまさかの妄言がとびだしました。花森の怒りがけっして的はずれではなかったことに気づかされ、いまさらながら小生も不明を恥じいります。

「戦争が終わって生まれたから、戦争のことは知らない、よく分からない」では、大人としていいわけにならないことを、小生ら戦後生まれの編集部員にむかって花森安治は訴えていたのです。その思いは北山さんにも通じたのでしょう。のちに「戦争を知らない子供たち’83」というタイトルで新たに作詞しています。その歌詞内容は、侵略をみとめたくない安倍さんたちにとっては不満でしょうが、いまや世界共通の歴史認識であるといえます。

作家の早乙女勝元さんは、「戦争を知っていたら伝えよう、知らなかったら学ぼう」とよびかけています。 現代の戦争は、なんの罪もない子供を殺します。おだやかな暮しを破壊します。苦しみと悲しみが、はてしない憎悪の連鎖をうみます。いちぶの人間だけが戦争でカネをもうけてうるおいます。始めるのはかんたんでも、終わらせるのはとてもむつかしいのが戦争です。

平和とは、戦争によって与えられるのではなく、たがいのちがいをみとめ、いのちを大切にし、暮しを尊重しあって、智慧をしぼり努力して、みんなで築きたもつ状態です。武器にたよってはダメです。花森安治は、「戦争を知らない子供たち」のために、『戦争中の暮しの記録』を編集しました。その最初に、こう語りかけています。


《君がなんとおもおうと、これが戦争なのだ。それを君に知ってもらいたくて、この貧しい一冊を、のこしてゆく。(改行)できることなら、君もまた、君の後に生まれる者のために、そのまた後に生まれる者のために、この一冊を、たとえどんなにぼろぼろになっても、のこしておいてほしい。これが、この戦争を生きてきた者の一人としての、切なる願いである》


暮しの手帖96号<特集戦争中の暮しの記録>1968


《三月十日午前零時八分から 二時三七分まで 一四九分間に
死者8万8千7百93名 負傷者11万3千62名
この数字は 広島 長崎を上まわる

ここを 單に 焼け跡とよんでよいのか
ここで死に ここで傷つき 家を焼かれた人たちを
ただ <罹災者>で片づけてよいのか

ここが みんなの町が <戦場>だった
こここそ今度の戦争で もっとも凄惨苛烈な
 <戦場>だった》
——花森安治「戦場」より



【註1】 『戦争中の暮しの記録』については、拙ブログこちらのページにも書いています。クリックしてごらんください。
http://sotei-sekai.blogspot.jp/2011/03/blog-post_27.html

【註2】 おかげさまで『花森安治の編集室』は6刷まで増刷されましたが、現在は絶版品切れです。すこし減りましたが、刊行18年後のいまもまだ、全国の公立図書館の一部に架蔵されているようです。花森のことを知りたいという方にお読みいただければうれしいです。

【註3】 拙著だけでなく、津野海太郎著『花森安治伝』、酒井寛著『花森安治の仕事』もおすすめします。

【註4】このブログの記事内容に共感していただけましたら、お知り合いにご紹介ください。 日本を再び世界に孤立させてはいけません。


2015年2月20日金曜日

アラバマ物語 ハーパー・リー (追補再掲)

1964


書 名 アラバマ物語   
著 者 ハーパー・リー(1926−) 
訳 者 菊池重三郎(1901−1982) 
発行人 大橋鎭子
発行日 昭和39年5月15日
発 行 暮しの手帖社
発行所 東京都中央区銀座西8−5(初版)
印 刷 青山印刷株式会社 
判 型 B6版変型 並製 無線綴じ 写真共本文406ページ
定 価 420円


見返しなし 表紙ウラから始まるプロローグ


奥付

【ひとこと】原作は昭和35年にアメリカで発表され、いちやくベストセラーとなった。それを『暮しの手帖』第1世紀63号から71号まで、すなわち昭和37年から38年まで、二年間にわたって翻訳掲載し、昭和39年に単行本化した。その年、作者のハーパー・リーは38歳。いまも元気なのかしら。

ハーパーの自伝的小説といわれる本書は、ピュリッツア賞をうけ、グレゴリー・ペック主演で映画化もされた。物語は、アラバマ州の小さな町に暮す弁護士の父と幼い兄妹にふりかかった「事件」を描いたもので、表紙の少女は映画での妹スカウト役、これが幼かったころの作者といわれ、その兄のジェムは、隣家にすんでいたトルーマン・カポーティの幼いころがモデルであるという。

少女の写真の背景を切りぬき、表紙を白くしたところが清潔であり、いかにも花森安治の装釘らしい。表紙をめくって冒頭に「この美しい小説を」というフレーズをかかげたのも鮮烈だ。そして扉の文字組。うまいなあ。


表紙全体 少女は映画でのスカウト役メリー・バーダム


【ひとこと】訳者の菊池重三郎は、『藝術新潮』の初代編集長。昭和26年、暮しの手帖社から『英吉利乙女』と題するエッセイ集が上梓されている。その当時、花森安治は『藝術新潮』の座談会記事の常連で、ときに司会をひきうけているところをみると、編集企画にも助言していたのではないか。花森がさしでがましいのではなく、おもいついたことを口に出さずにはおられぬ性分であって、その花森の性分にたすけられたメディア人は、菊池だけではなかったはずだ。

ところで本書の訳文は、日本語として、きわめて上質である。その文章は漢字がすくなく、適度に改行してあって、見た目にゆとりがあり、柔和である。なめらかで、わかりやすく、すらすら読める。じっさい小学校高学年でも読める、りっぱで美しい日本語だ。翻訳ものには珍しい。——と思って、『暮しの手帖』連載時の訳文と、単行本のそれをくらべると、単行本のほうが、はるかに読みやすくなっている。わけを編集部の大先輩、故横佩道彦にきいたことがあった。花森は編集部員に「英和辞典に出ている言葉は日本語だと思うなと叱咤したという」と、みずから翻訳で苦労した経験をもつ山本夏彦もつたえている。諸賢のご想像どおりである、とだけ言っておきましょう。

本書は版をかさね、現在でも暮しの手帖社から刊行されている。税込価格1050円。この夏休み、お子さんといっしょに読んでみませんか。推理小説を読むような謎解きのおもしろさも味わえ、なにより人間の尊厳にふれることができます。
(2011/7/22記)


【2015/02/20補記】
さきごろ『アラバマ物語』の続篇が米国で刊行されると報じられた。原題「ゴー・セット・ア・ウォッチマン」といい、いささかの経緯があるようだ。

この作品は本篇執筆以前にかかれていたのだが、当時の担当編集者がよみ、主人公スカウトの視点を、大人になってからではなく、少女時代にしてかきなおすようアドバイスし、その結果できあがったのがベストセラーとなった『アラバマ物語』だというのである。つまり<続編>ではあるが、作品としては本篇より先にかかれており、紛れ忘れられていた本原稿が発見されて、ようやく刊行の運びとなったという。

この朗報でうれしかったのは、作者ハーパー・リーが89歳のいまも元気であること。また、おどろくにはあたらないのだろうが、日本で出版した暮しの手帖社の大橋鎭子さんよりも若かったことである。いまの日本には、功成し名をとげた著名人のなかに「差別ではなく区別だ」といいのがれてみずから怪しまない老作家がいる。鎭子さんは、ゆえなく差別する者を憎むひとであった。女手で娘三人をそだてた母親の大橋久子さんは、凛とした明治の女性であった。

編集者のだいじなしごとの一つは、作品の長短を問わず、それが世に出るにあたいするか否か、判断しなければならないことだ。 あいてが著名人でも、依頼してかいてもらった原稿でも、これじゃ出せないと判断すれば掲載版行しない。それが編集者の見識と矜恃というものであった。花森安治にはそれがあった。原稿をつきかえされ、書きなおしを求められた筆者の一人に永六輔さんがいる。永さんは後年、それでも二本ぶんの原稿料をもらったと正直にうちあけた。花森はけっして自由な言論を封じたわけではない。筆者をまもるのも編集者のやくめなのだ。くれぐれも誤解しないように。



2015年1月13日火曜日

終戦から70年めの花森忌



1月14日は花森安治の祥月命日。

花森が心筋梗塞の再発で急逝したのは1978年のこと。その日から37年の歳月がながれた。ことしは終戦から70年。戦争の狂気、もたらす悲惨と苦難を身をもって体験したひとびとが世を去るのを待ちかねたように、いま日本は「いつか来た道」をふたたび突っ走ろうとしている。その危うさを、おそらく誰もが気づいているはずなのだが、・・・。

花森に『無名戦士の墓』と題する随筆がある。そのなかの一節。

《出来上がった日には、天皇と皇后がおまいりになった。大臣も参列したろう。しかし、それきりであった。
外国には大てい無名戦士の墓があって、各国の元首や首相級の人物がその国を訪れると、必ずおまいりするのが儀礼である。まえの首相岸信介氏が外遊したときも、もちろんそうしてきたが、出かけるまえ、日本の無名戦士の墓にまいってくれとたのんだら、忙しいからと花束だけをとどけてよこした》

つぎにひくのは、花森安治の遺文からではない。しかし、いまの日本の異様な政治状況をみごと写している。ブログにのせることを花森もゆるしてくれるとおもう。

《——ここにたけりくるっている人たちは、何か妙なものに動かされています。一人一人はあるいは別のことを考えているのかもしれません。しかし、全体となると、それは消えてしまってどこにも出てきません。人々はお互いにあおりたてられた虚勢といったようなものから、後にはひけなくなっているのです。別な態度をとれなくなっているのです。何か一人一人の意志とははなれたものが、全体をきめて動かしています。この頑固なものに対しては、どこからどうとりついて説いていいのか、分りませんでした。中には、本当にここで死ぬまで戦おうと決心している人もたしかにいました。しかし、そうではなくて、もっと別な行動に出た方が正しいのではないか、と疑っている人もいるにちがいないと思われました。しかし、そういうことはいいだせないのです。なぜいいだせないかというと、それは大勢にひきずられる弱さということもあるのですが、何より、いったい今どういうことになっているのか事情が分らない。判断のしようがない。たとえ自分が分別あることを主張したくても、はっきりした根拠をたてにくい。それで、威勢のいい無謀な議論の方が勝つ——》

これは『ビルマの竪琴』の主人公水島上等兵が、隊長と戦友にあてた手紙の中でかいたことば。とりもなおさず作者竹山道雄のことばである。執筆当時、竹山は保守反動のレッテルを貼られ、深い孤独をあじわっていたという。良心にしたがって節をまげずに生きること、頑なに偏った集団意識を変えることのむつかしさが、竹山にはよくわかっていたとおもう。

国民に知られてはつごうの悪い情報をかくす秘密保護法をつくり、平和憲法を改正し「強い日本を取り戻す」なんて威勢のいい議論に与しているかぎり、政府与党の議員諸君の胸には、竹山の平易なことばをもってしても、平和をねがう国民のおもいは届かないであろう。いや、ふたたび国が破れたのちは、皮肉にも竹山のことばをもって、またもやいっせいに自己弁明をはかりそうな気がする。「何も知らなかった、だまされた」と。

安倍首相は1月11日、尊崇する祖父岸信介とその弟佐藤栄作の墓にまいり、戦後70年をきし、墓前であらためて誓いをたてたという。靖国神社へは玉串料だけとどけてすます姑息なやり方は、祖父をまねたのであろう。恒久平和を希求する天皇皇后両陛下と国民のこころを、ふみにじっているとしか見えない。先祖の墓まいりが悪いのではない。閣議決定で憲法解釈を変える無謀なやりかたと同じで、この御仁には日本の首相であることの自覚と海外諸国への配慮がたりないのである。ふたたび花森の遺文から引く。

《生きて帰った者もあるし、死んで帰ってきた者もいる。死んで靖国神社にまつられているものもあれば、名もわからず弾薬庫のすみにおかれ、やっと墓が出来ても、国も知らん顔、だれもかえりみようとしない者もある。(こんな国ってあるものか)》

政府閣僚諸君、与党諸君、いや国会議員すべてのみなさん、まずは無名戦没者の墓(千鳥ヶ淵戦没者墓園)へおまいりしてください。 ヘーゲルさんもケリーさんも、おまいりしてくれたじゃないですか。日本人ならおまいりできるはずだ。いや、しなければならない。竹山道雄『ビルマの竪琴』の水島上等兵はこう書いている。

《集まっている人の多くは婦人でした。青い目にばら色の頬をして、きよらかなきりっとした看護婦の服装をしていました。男は帽子をぬいでいました。その人々がいま埋めおわった墓のほとりに立って、賛美歌を合唱していたのでした。
イギリス人たちは敬虔にうたいおえて、胸に十字をきり、首をたれて黙禱をしたあとで、しずかにそこを離れました。
私はかれらが去ったあとに行きました。そこにはあたらしい石がおいてあって、小さいけれどもきれいな花環が供えてありました。そして、その碑面には「日本兵無名戦士の墓」とほってありました。》
——新潮文庫『ビルマの竪琴』(昭和34年4月15日初版発行)より


<註 1>『無名戦士の墓』は、 花森安治『一戔五厘の旗』(暮しの手帖社刊)に収められています。ぜひ読んでください。
<註 2>このブログで検証したように「何も知らなかった、だまされた」は、花森のことばではない。それは終戦直後、戦勝国側による戦犯追及から逃れるために、日本の旧軍人たちが口をそろえて言ったことばである。
<註 3>首相が直接おもむき、諸外国と友好を深めるのはよいことである。しかし経済援助の名目でカネを土産にするのは、カビ臭い金権政治そのままではないか。外国人から札束で頬をなでられて、人間としての尊厳と誇りが傷つかない国民が、いるものであろうか。「顔で笑って心で泣いて」という言い方が日本語にはある。
<註 4>下のサイトで千鳥ヶ淵戦没者墓苑への近年の参拝状況がわかる。
http://www.boen.or.jp/boen00.htm