2011年7月29日金曜日

外國拜見 門田勲

1955


書 名 外國拜見 河出新書★65
著 者 門田勲(1902−1984)
発行人 河出孝雄 
発行日 昭和30年1月10日(3刷)
発 行 河出書房
発行所 東京都千代田区神田小川町3−8
印刷人 山元正宜
印刷所 三晃印刷 
判 型 新書判 並製無線綴じ カバー  口絵共180ページ
定 価 100円


奥付


【ひとこと】門田勲は、名うての朝日新聞記者。本書は昭和20年代、朝日新聞に連載された門田の特派員報告である。小生が畏敬する高島俊男先生は、「観察が皮肉で文章がうまい」その記事を、高校生のころ愛読したと書いている。門田の文章がいかに読者を魅了したか、たとえば本書のまえがきを川端康成が、あとがきを大佛次郎が寄せていることからも察せられる。二大文豪が認めるほどの筆力があった。

門田は、数多くのエピソードの持ち主である。とりわけ抱腹絶倒の武勇伝にことかかない。『暮しの手帖』第20号(1953)にも「六代目を叱った話」を書いている。名優六代目尾上菊五郎を取材しに行ったとき、六代目の態度が横柄だと、記者になりたての若い門田が叱りつけて功を奏したというもの。それをたんなる自慢話にせず、真相報告にしているところが、門田の記者魂であり、真骨頂であろう。

花森安治のカバーは、黒を基調にしてシックでエレガントだ。それがオトナの雰囲気をかもし出す。この本は旅行者向けのいわゆる観光案内ではない。ウイットに富んだ欧米批評である。なかには新聞紙上連載当時の、佐藤敬、荻須高徳、堂本印象、清水昆、猪熊弦一郎の粋なさし絵が添えられている。


カバー全体


【もうひとこと】河出新書本体を装釘したのは庫田叕である。ネット上のデジタル人名辞典は次のように紹介している(コピペ)。

——昭和−平成時代の洋画家。明治40年2月7日生まれ。馬淵美意子の夫。川端画学校にまなび,昭和4年二科展に初入選。12年国画会同人となり,14年「山の松」で佐分(さぶり)賞。13年,14年新文展で連続特選。47年東京芸大教授。高村光太郎「道程」,太宰治「人間失格」などの装丁も手がけた。平成6年12月1日死去。87歳。福岡県出身。本名は倉田哲介。


本体装釘は庫田叕


【さらにひとこと】河出新書には、花森安治の『逆立ちの世の中』がある。帯はついているが花森のカバーはかけられていない。他に花森のカバーで知られるのは、伊藤整『伊藤整氏の生活と意見』。次回、それをごらんにいれたい。

2011年7月27日水曜日

現代のマスコミ 扇谷正造

1957


書 名 現代のマスコミ 週刊朝日編集長の覚書
著 者 扇谷正造(1913−1992)
発行人 和田欣之助 
発行日 昭和32年6月15日
発 行 春陽堂書店
発行所 東京都中央区日本橋通3−8
印刷所 赤城印刷株式会社 
判 型 B6判 上製無線綴じ 本文222ページ
定 価 220円



奥付

ウラ表紙


【ひとこと】扇谷正造は、戦前の東大新聞に花森安治が入部を志望してきたとき、一年先輩として面接した男である。爾来、ふたりの友情は、花森がゆくまで続いた。おりにふれ扇谷は、花森のことを、親愛の情をこめて書いている。本書にもそんな箇所があった。

昭和28年秋、NHKラジオで「岡目八目」という題名の放送が始まった。池島信平、花森安治、それに扇谷の三人が出演した鼎談で、山口瞳も毎週欠かさずに聞いたという番組である。宮城の生れでなまりがぬけず、そのうえ早口で話が聞きとりにくかった扇谷の、みずからを羞じ、照れながらの花森礼賛の辞である。

——花森安治氏のは、悠々迫らず、あたかも教祖的おちつきをもって、立論整然、おまけに、時々は、私の話を聞き返してくれたり、いい直してくれたり、いやはや、正に嬉しい友情の限りであった。——


表紙全体(見づらいがコンパスやカラス口など製図用具が描かれている)


【もうひとこと】本書には、「さしえあれこれ」と題した鼎談をおさめている。出席者は岩田専太郎、産経新聞出版局長の前田重信、それに扇谷の三人。そこで挿絵が扇情的になりがちな傾向に岩田が言及し、こんな発言をしている。

——文章の方はやはり、描写の都合でエロティックになることがある。それを絵描きが更に輪をかけるような絵を描かれることは困る、ということは舟橋さん自身もいってますよ。——

かつて舟橋聖一の『満月』(大元社版)を紹介したとき、志村立美のカバーについて、小生はいささかきつい物言いをしたけれど、その当時の社会感覚からすれば、やはり舟橋にも抵抗があったのであろう。食べてゆくにも窮してしまうと、やりたくないこともやらなくてはならないときが、だれの人生にもあるけれど・・・。

2011年7月25日月曜日

茶の間の正義 山本夏彦

1967


書 名 茶の間の正義
著 者 山本夏彦(1915−2002)
発行人 上林吾郎 
発行日 昭和42年11月5日
発 行 文藝春秋
発行所 東京都千代田区紀尾井町3
印刷所 大日本印刷 
製 本 中島製本
判 型 四六判 上製無線綴じ 角背ミゾ カバー 本文290ページ
定 価 550円


表紙


章扉にも花森のイラストが

奥付 (最初の著書は翻訳書であったことがわかる)


【ひとこと】奥付を見てのとおり、山本夏彦にとって二冊目のエッセー集。しかも自社ではなく、他社から最初の上梓。それを花森安治が装釘した。これは、あんがい意外感がある。というのも山本は、『暮しの手帖』の商品テストについて、彼一流の辛辣な見かたをしていた。だが、ごらんのように、花森はとても丁寧なしごとをしている。ぶざまなしごとはできない、という花森の職人気質もあったであろうが、ものごとの本質を見きわめる山本の眼に、花森は共感するところが多かったのではないか、だからこそ山本も、花森をさして「悲劇の人」と評さざるをえなかったのではないか。——そこには山本の惻隠の情があった、と小生はおもう。


表紙全体

カバー全体


【もうひとこと】 山本夏彦の晩年の著作をよむと、出版界はいうにおよばず世事万端にたけた長老の粋な漫談のごとき悠々たる風情があるが、本書執筆当時は50歳前後、さしずめ旬の初鰹といった清新さにあふれている。ことばが光っている。文章がぴちぴち跳ねている。読むものを、ときに挑発し、ときに笑わせ、そしてうならせる。一流の諧謔家としての本領を、山本はここに確立した観がある。とりわけ本書は、これからマスコミ業界で働こうとする若いひとにとって、得るところが多い。

山本夏彦も花森安治も、とてもオシャレであった。見習うべきは、そのダンディズムであろう。ざんねんながら、小生は習い損じた。そも資質において、遼か遠く及ばない。されど憧れは抱いていたい。

2011年7月24日日曜日

【森の休日】第6回 大阪屋の包装紙

いつのころか、本を買ったとき、店のカバーでくるんでもらうのを断るようになっていました。読むのは部屋の中ですし、読むときはカバーや帯はじゃまで、はずしています。店のカバーをかけてもらうのは、ムダというよりも、自分にはもったいない、という感じがしてしまうからです。だから、花森安治デザインの書店用カバー(書皮)というものがあると知ったとき、ちょっと驚きました。


大阪屋特製書店用カバー(右開きの表紙)

その書店用カバーは、書籍取次業の大阪屋が有償でつくっており、いまも日本の町の本屋さんのそこかしこで使われています。書店によっては店名を印刷したカバーもあるとかで、もしかすると、このブログをみてくれている人が買った本にも、かけられているかもしれません。


カバーをかける前の広げた状態

このカバーは、おなじデザインで、大きさのちがう2種類があります。B5判以下の雑誌や書籍用と、新書や文庫版用です。左右どちら開きの本や雑誌にも合うように配慮されており、ごらんのように花森安治らしいイラストで構成されていて、さながら花森安治オリジナル・カバーといったおもむきです。サインこそありませんが、これが花森のデザインであることに、多くのかたが気づいておられたでしょう。書皮蒐集家のコレクションには、かならず入っているそうです。


大阪屋特製書店用カバー(左開きの表紙)

花森安治が大阪屋のためにつくったのは、このカバーだけではありません。書店用の包装紙もつくっていました。下がそれで、カバーとおなじ図柄を2段にして、大きさはタテ543ヨコ395ミリ、A4サイズの本なら包めますから、たとえば絵本などのプレゼント用にちょうどいい大きさです。このカバーと包装紙がつくられたのは昭和29年(1954)、半世紀以上をへた現在もつくられ、書店で使われているそうです。


大阪屋特製書店用包装紙


そこで素朴な疑問がわいてきました。数ある書籍取次業者のなかで、なぜ花森安治は大阪屋だけに特別にデザインをしたのでしょうか。頼まれても、相応の理由がないかぎり、花森はかんたんに応じるような人間ではありませんでした。疑問の答が『大阪屋五十年史』に記されていました。おどろいたことに、花森が大阪屋のためにしたのは、包装紙等のデザインだけではなかったのです。

昭和30年代、大阪屋の初代社長福永政夫は、取次業績をあげるため、さまざまな方法を試みました。そのひとつが「経営を豊かにする書店奥様教室」で、初回は書店の妻たちを有馬温泉にまねき、慰労をかねての研修会を開きました。そのとき花森は大阪屋特製浴衣をデザインしています。そればかりか昭和39年には、花森みずから奥様教室で講演していました。『暮しの手帖』の花森安治が、そこまで大阪屋に肩入れするのはいったいなぜか、業界全体が疑惑のまじった目で見たようです。業界紙の取材におうじて、花森はこう答えていました。

「私はなにも福永社長から三顧の礼をつくして口説き落とされたから来たわけではない。大阪屋には恩義があるので、少しでも恩返しをしたいと思って出てきた。『暮しの手帖』がまだ海のものとも山のものとも判らぬ草創期に快く扱ってくれる書店もない時期に、現金仕入れをしてくれたのは大阪屋と三越だけであった。われわれは当時の有難さをいつまでも忘れない」(PSジャーナル昭和39年8月15日付より)

ここに花森安治の律儀さがあります。きどっていえば人生哲学です。わたしが在職していたころも、テスト用商品をはじめ社で必要な品は、すべて日本橋三越で買っていました。社員にも三越で買うようにと勧めました。それは窮屈な感じすらしたものですが、理由がわかると、その頑固さはむしろ潔さに思えます。義理人情、紙風船の如しでは、さみしいではありませんか。恩義に生きた男——それが花森安治の一面でした。


*この項をかくにあたり、株式会社大阪屋東京支社広報室分室の小熊正美氏より資料提供をうけました。大へんおせわになりましたこと、ここに厚くお礼申しあげます。

2011年7月20日水曜日

黄色の部屋 ガストン・ルルー

1953


書 名 黄色の部屋 異色探偵小説選集② 
著 者 ガストン・ルルー(1868−1927)
訳 者 水谷準(1904ー2001)
発行人 福林正之 
発行日 昭和28年8月20日
発 行 日本出版協同株式会社
発行所 東京都文京区春日町1−1
印 刷 本文 和光印刷株式会社 カバー 平版印刷株式会社  
製 本 石川製本所
判 型 B6判 上製平綴じ 本文302ページ カバー
定 価 250円


表紙


奥付

表紙全体


【ひとこと】すでに拙ブログで紹介したが、本書ののちに刊行された創元社世界推理小説全集のタイトルは『黄色い部屋の謎』になっている。おなじ水谷準の訳で、訳文もほとんど同じなのにタイトルをあとから変えたのは、原題の  “LE MYSTERE DE LA CHMBRE JAUNE”   に忠実にしたためであろうか。「——の謎」だけでなく「——の秘密」とした本もあるが、「黄色の部屋」でもじゅうぶん怪しげだ。

版元の日本出版協同と福原正之(1901−1977)について、『出版人物事典』につぎの記載がある。
 「東大社会学科卒。報知新聞記者などを経て、1943(S18)3月、日本出版会創立とともに総務部次長兼編集室長となり、『日本読書新聞』の経営にも当る。 '45日本出版助成株式会社の専務に就任、翌年、日本出版協同株式会社に改組した際、社長に就任。 '54年倒産、出版協同社として再出発。陀助のペンネームで健筆を振い、『ある聖医伝』では文藝春秋読者賞を受賞、『マラソン爺さん』の著書もある。日本出版クラブ設立時には発起人となり、評議員もつとめた。」——花森安治とは戦時中からの知り合いであったことがわかる。


カバー全体

セロファンカバー

【もうひとこと】本書は、異色探偵小説選集と銘うった全12巻の一冊。装釘は、いずれも花森安治の同一デザイン、書名と著者名を変えているだけ。この選集の、本や作者の選び方、訳者陣をみると、『新青年』の編集者たちの関与がうかがえる。花森安治は、探偵小説誌の編集者としての水谷準を、ひじょうに高く評価していたようだ。

ガストン・ルルーの名は、いまや「オペラ座の怪人」の原作者として有名であろう。なんども映画化されたし、日本では劇団四季のミュージカルでヒットした。 シラノ・ド・ベルジュラックもそうだが、やっぱり古今東西、男の魅力は「顔の美醜じゃない、やさしさ」だ。フィリップ・マーロウも言ってるじゃないか。「やさしくなれないようでは、生きている資格はない」。いまの政治家に欠けているのは、責任とやさしさ。

2011年7月18日月曜日

凧 大下宇陀兒

1948


書 名 凧 探偵小説集 
著 者 大下宇陀兒(1896−1966)
発行人 早川清 
発行日 昭和23年1月20日 第二版
発 行 早川書房
発行所 東京都千代田区神田多町2−2
印刷者 牧恒夫
印刷所 株式会社大化堂 
判 型 B6判 上製平綴じ 本文152ページ
定 価 65円


ウラ表紙


目次

奥付

【ひとこと】花森安治による装釘の本書は第二版。昭和21年にでた第一版を装釘したのは横川伸幸であった。改版時に変えているのだが、装釘者名がしるされていないため、南陀楼綾繁さんに教えられるまで、小生は気づかずにいた。この第二版がおなじ早川書房、吉川英治選集第二巻『青空士官』の刊行(昭和22年12月)直後に出ているところをみれば、花森は同時に装釘をうけおったと考えていいだろう。


表紙全体


【もうひとこと】大下宇陀児(おおした・うだる)、本名木下龍雄は明治29年、長野県上伊那郡中箕輪村にうまれた。現在の上伊那郡箕輪町であり、すなわち小生が住んでいる町の出身。大下が学んだ中箕輪尋常小学校は、新田次郎『聖職の碑』の舞台となった学校でもある。古い卒業名簿から、小生の父きょうだい10人、すべて大下と同窓であることがわかった。

筆名は夫人の名まえ歌子に由来する。「たいした歌子」をもじって大下宇陀児とした。そこで誰しもおもうのは、児が「る」と読めるか、という疑問。よんで読めないことはない。いまは死語となっているが、かつては年寄りのことを、いささか揶揄をこめてロートルと言った。あるいはわが身を自嘲していった。これを漢字でかけば「老頭児」。つまり中国語発音なのだ。大下の頓智がうかがえ、愛妻家だったことがわかる。

『暮しの手帖』に、大下宇陀児の文章が二ど掲載されている。最初は昭和29年発行の第26号「夢の母」、明治の伊那谷に生きた母親の凛とした姿勢が、文に添えた写真からもつたわる。二どめは昭和41年発行の第86号「子どもの悪性」。大下が急性心筋梗塞でなくなる五日前にかかれ、絶筆となった。

花森安治は、探偵小説作家としての大下宇陀児を高く評価したが、ふたりの資質には似かようものが感じられる。いずれ日をあらためて書きたい。

2011年7月15日金曜日

愛のかたみ 新書版

1958


書 名 愛のかたみ 新書版   
著 者 田宮虎彦(1911−1988)・田宮千代(1913−1956)  
解 説 草間平作(1892−1985)
発行人 神吉晴夫
発行日 昭和33年7月25日(初版)
発 行 光文社
発行所 東京都文京区音羽町3−19
印刷人 山元正宜
印 刷 三晃印刷株式会社
製 本 関川製本
判 型 新書判 並製 平綴じ カバー 本文332ページ
定 価 200円(昭和36年9版)


表紙全体

奥付


カバー全体

 【ひとこと】さすがKAPPA BOOKSをつくりだした神吉晴夫である。よみやすいが決して「通俗」的とはいえぬ本書を、すぐにKAPPA BOOKSの一冊にくわえ、売れゆきに勢いをあたえた。新書版の表紙も、花森安治のおなじイラストと描き文字をつかっている。これぞまさに出版人としての神吉のカンと読みの冴えというものであろう。

単行本と新書版の装釘のちがいは見てのとおりだが、新書版には解説を加えた。「『愛のかたみ』を読む」と題した草間平作の平易な文章は、21ページにもおよび、田宮と夫人のふたりによる本書について、情理をつくした読書案内になっている。またそれは田宮への一連の批判や中傷への反論にもなっており、一読の価値がある。

1955 カバー 斎藤清の木版画
【もうひとこと】新書版のウラ表紙には、田宮虎彦と千代のポートレートがのせられている。夫人千代が手にしているのは、KAPPA BOOKSにおさめられた田宮虎彦の『随筆たずねびと』である。本ができあがったとき、ふたりして光文社をおとずれ、記念に撮ってもらったようだ。

その『たずねびと』のカバーを表紙にまきこんだ部分に、花森安治による田宮人物評がのせられている。題して「いい奴だなあ」。すこし長いが以下に引用する。

——ときどき、田宮虎彦って、どんなひとか、と聞かれることがある。ぼくが、ふるい友だちと知ってのことだろう。しかし、そんなとき、いつだって、うまく答えられたことがない。とにかく、いい男でね、ぐらいになってしまうが、これでは、もちろん答えにはならないから、まあ、ときどき彼の書く、みじかい文章を読んでごらんなさい、とつけ加える。行きとどかない返事のようだが、じつは、これが一番たしかなことだからである。

たとえば、この本のはじめにのっている「地獄極楽図」という文章、枚数にして五、六枚のみじかいものだが、これを読むと、なまじ、じかに田宮と向きあって、あの人のよい顔を半日みているより、もっと、なにか直接な、じいんとしたものが、こちらの腹の底に、じかに、つたわってくる。小学校のときから、つきあっている友だちのはずなのに、いまさらのように、田宮って、いい奴だなあ、と思うのである。こういうときの気持のよさは、ぼくなどの暮しでは、そうめったにあるものではない。——

ここに花森が賞揚した「地獄極楽図」は、じつは昭和23年発行の『美しい暮しの手帖創刊号』のために田宮が書いた小品である。 花森は、田宮の随筆集のちょうちんを持ちつつも、みずからの雑誌の存在をしめすことを忘れていない。こんなところに小生は、花森安治と神吉晴夫の阿吽の呼吸を感じるし、田宮ともども三人のかわすニッコリが目にうかぶ。

2011年7月13日水曜日

愛のかたみ 田宮虎彦・田宮千代

1957


書 名 愛のかたみ   
著 者 田宮虎彦(1911−1988)・田宮千代(1913−1956)  
発行人 神吉晴夫
発行日 昭和32年4月1日(初版)
発 行 光文社
発行所 東京都文京区音羽町3−19
印刷人 山元正宜
印 刷 三晃印刷株式会社
製 本 関川製本
判 型 B6判 上製 丸背ミゾ平綴じ 函入り 本文254ページ
定 価 280円(昭和32年18版)


表紙全体


奥付

【ひとこと】なき妻の千代を共著者としているのは、ふたりの往復書簡をのせていることによる。田宮虎彦は妻を胃ガンでうしなった悲しみを真率につづり、本書はベストセラーになった。しかしその真率さが、たとえば平野謙をして「変態的」と批判させ、一部のマスコミはその尻馬に乗って、あらぬ中傷誹謗をした。妻をさきに喪うことになった男の悲哀は、その愛の大きさに比例して深い。その逆については、むろん言を要しまい(小生のばあい、吾妹はドンペリで祝杯をあげそうだ)。


函を展開したところ(合成)

【もうひとこと】本書には花森安治の名まえが出てくる。妻千代の死が避けられぬと知った田宮は、服部之總の葬儀のかえり、暮しの手帖社をたずねた。

——私は、花森安治に会いたいと思ったのだ。花森に会えば、私の不安が何とかなると思えた。(しかしその日、花森はるすで会えず、一週間ほどしてあった。田宮は)、千代のことはいわず、花森とはじめて知りあった小学生の頃の言葉で、私は「たのまれてほしいんや、おれがどうにかなったらな……」といった。花森は「仕方ないよ、たのまれるんやったら、たのまれるがなあ」とこたえて、不安そうに私をみつめた。

その後、田宮は気をとりなおし、ふたたび生きはじめた。花森安治にみずからの死後を託したとき、花森がひきうけてくれたとき、かえってなにかがふっ切れたのではなかろうか。友はありがたい。 

2011年7月11日月曜日

第二の性 新潮文庫 

1959


書 名 第二の性 Ⅰ 女はこうしてつくられる   
著 者 シモーヌ・ド・ボーヴォワール(1908−1986) 
訳 者 生島遼一(1904−1991) 
発行人 佐藤亮一
発行日 昭和34年10月10日(初版)
発 行 新潮社
発行所 東京都新宿区矢来町71
印 刷 東洋印刷株式会社(カバー印刷 錦明印刷)
製 本 加藤製本株式会社
判 型 文庫版 平綴じ 本文272ページ
定 価 320円(昭和56年38刷)



文庫版 左・Ⅱ 女はどう生きるか 右・Ⅲ 自由な女

文庫版 左・Ⅳ 女の歴史と運命 右・Ⅴ 文学に現われた女


【ひとこと】先にごらんにいれた『第二の性』文庫版である。単行本のカバーデザインが二種あったのを、一つに統一している。花森安治の存命中だったから、文庫版におけるカバーの一部変更は知っていたであろうが、これはむしろ別の装釘といったほうが正しいかもしれぬ。お手をわずらわせる労をはぶくため、単行本のカバーをここに再び録す。書名を活字(写植)にすることで、うける印象がかわってくるのが問題なのである。無機質というか、乾いた感じになった、とおもいませんか。


単行本 女はこうして作られる

単行本 女の歴史と運命

【もうひとこと】さきごろ刊行の『花森安治戯文集1』に、「装釘と著作権」「本作り」の2篇が収載されている。小生未読の文章であった。花森安治の本つくりや装釘についての考え方がよくわかる。小生の記憶ちがいでもなく、憶測もまんざら見当外れではなかったことに、いささか安堵した。

2011年7月8日金曜日

まひる 第十號

1947


誌 名 まひる 「おとぎのくに」改題 第十號
発 行 まひる書房
発行日 昭和22年9月15日
編集人 畠山義男
発行人 吉井武雄
発行所 東京都千代田区神田司町1−1
印刷人 原川力
印 刷 日章印刷株式会社
判 型 B5判 平綴じ 表紙共全36ページ
定 価 15円


【ひとこと】南陀楼綾繁さんから拝借した稀少の一冊。
花森安治にしてはめずらしい、版画のようなタッチの表紙絵だ。チロル風の衣裳や建物から、おそらく『アルプスの少女ハイジ』をイメージしたとおもわれるが、いまやアニメのキャラクターが浸透し、現代っ子にはハイジに結びつかないだろう。ちなみに『アルプスの少女ハイジ』の原作は1880年、スイスのヨハンナ・シュピリによって書かれており、日本では1920年、野上彌生子訳『ハイジ』で紹介されている。


編集後記と奥付


【もうひとこと】まひる書房は戦後、少年少女向けの本や絵本を多数だした出版社。昭和21年度版『最新出版社執筆者一覧』にも収載されているが、当時は麹町区富士見町が所在地、主要出版物名も『少國民』として収載されている。発行人の吉井武雄についてもよくわからない。

表紙に「おとぎのくに」改題とある。社名をとりいれて『まひる』にしたのだろうが、なんのことだか通じにくい誌名にしたものだ。改題を期して花森安治に表紙をかかせたものらしく、編集後記には次号も「花森先生にお願いします」とある。しかし、この一冊きりであったようで、ほかの号は描いていないもよう。