2015年3月24日火曜日

新版きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記

新版きけわだつみのこえ カバー 1995


書 名 新版 きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記
編 者 日本戦没学生記念会
発行者 安江良介
発行所 岩波書店
発行日 1995年12月18日 第1版
判 型 文庫
価 格 700円(税込・発売当時)


『戦争中の暮しの記録』とあわせて読んでほしいのが上掲書です。前者が、戦時を生きのびた人々の手記であるのに対して、こちらは学生に限られてはいますが、戦場であたらいのちを失った若人の手記をあつめています。<わだつみ>とは海神をいみする古語。さきごろフィリピン沖にしずむ戦艦武藏が発見されたのも、わだつみからの警鐘のようにおもえます。本書におさめられている一通の手紙を、以下に引用し紹介させていただきます。


《この手紙、明日内地へ飛行機で連絡する同僚に託します。無事お手元に届くことと念じつつ一筆を執ります。

目下戦線は膠着状態にありますが、何時大きな変化があるかも知れません。それだけに何か不気味なものが漂っています。生死の境を彷徨していると、学生のころから無神論であった自分が今更のように悔まれます。死後、どうなるか? といった不安よりも現在、心の頼りどころのない寂しさといったものでしょうね。その点、信仰厚かった御両親様の気持が分るような気がします。

何か宗教の本をお送り願えれば幸甚です。何派のものでもいいのです。何派のものでも期するところは同じだと思います。たとえ一時的でもいい、心の平衡が求められればいいのです。

この土地の言葉はタガログ語です。この点、外語で支那語を専攻した自分にはちょっと取りつきにくいですが、いくらか土人の言葉にも馴れました。言葉が分ると自然と人情が湧いて来るものです。皮膚の色が変っても人情上は変りありません。母上がいつかおっしゃられたように無益の殺生は部下にも堅く禁じております。

マニラ湾の夕焼けは見事なものです。こうしてぼんやりと黄昏時の海を眺めていますと、どうして我々は憎しみ合い、矛を交えなくてはならないかと、そぞろ懐疑的な気持になります。避け得られぬ宿命であったにせよ、もっとほかに打開の道はなかったものかとくれぐれも考えさせられます。

あたら青春をわれわれは何故、このような惨めな思いをして暮さなければならないのでしょうか。若い有為の人々が次々と戦死していくことは堪らないことです。

中村屋の羊羹が食べたいと今ふっと思い出しました。
またお便りします。このお便りが無事に着けばいいのですが・・・・
兄上、姉上、そして和歌子(姪)ちゃんにくれぐれもよろしく。
早々不一

昭和二十年三月五日

父上様 母上様                 瀬田萬之助 》


瀬田萬之助さんは、三重県で大正12年にうまれました。東京外国語学校支那語貿易科に在学三年後、入営。この手紙を同僚に託したわずか二日後、ルソン島で戦病死しています。享年23。「英霊の御霊に哀悼の誠をささげる」なんて紋切型のセリフを吐いて戦死を美化する者らに、瀬田さんたち若人の無念は、永遠にわからないでしょう。


【あらずもがなのひとこと】
創価学会を支持基盤とする公明党が、平和や福祉の政党ではなく、赤ずきんをかぶったオオカミであったことが判然とした今、日本の他の仏教者たちも、いままた「八紘為宇(八紘一宇の原典)」を公然とポスター掲示する神社(国家神道)に、恥じらいもなくひざまづくような気がする。生死をあきらめることを一大事ととく仏教者であれば、外国へ出かけて他国のためにも武器使用をみとめる集団的自衛権行使に賛成か反対か、態度をはっきりさせるべきだろう。

「たすけんと思ふ心のさきだてて にくまるゝともわらはるゝとも」
——長松清風


<追記 2015/05/27>
真宗大谷派(東本願寺)は5月21日、宗務総長名で「安全保障関連法案に対する宗派声明」において、強く反対の意を表明した。

憲法の「政教分離」をカン違いしている者がいて、宗教者が政治に口出しするなとの非難誹謗もあるが、宗教者といえども参政権は認められており選挙権も与えられている。 真宗大谷派の声明は、宗教者として人間として、しごくまっとうな主張である。



2015年3月3日火曜日

「戦争を知らない子供たち」

花森安治の編集室 カバーおもて


書 名 花森安治の編集室
著 者 唐澤平吉
装 釘 平野甲賀
発行人 中村勝哉
発行日 平成9年9月30日初版
発 行 晶文社
発行所 東京都千代田区外神田2−1−12
印 刷 堀内印刷
寸 法 192ミリ×136ミリ 本文269ページ
定 価 本体2100円


ブログに拙著をとりあげることはためらわれます。自慢げだから——
しかし、こんどばかりは、そうもいっておれません。花森安治のことばを、あらためて考えてほしいのです。たとえばこんなことをいって、とても怒っていました。拙著からひきます。


《あの「戦争を知らない子供たち」という歌は、いったいなんだ。戦争が終わって生まれたから、戦争を知らなくてもいい、というのか。いいかげんな歌をうたうなっていうんだ。戦争を知らなければ、戦争というものがどういうものか、それを知るべきなんだ。知らないものほど、戦争の愚劣さを知ろうとしなくちゃダメなんだ。戦争を知らないものは、知る権利と義務がある。そうでなくて、どうして反戦なんだ。どこが反戦なんだ》


ごぞんじのように中谷防衛大臣は、2月27日の閣議後記者会見で、防衛省設置法に「文官統制」が規定されたのは、戦時中の軍部独走の反省からではないかと記者に問われ、「そういうふうには私は思わない」とこたえました。そこで記者がかさねて文官統制導入の理由や経緯についてたずねると、昭和32年生まれの大臣は「私はその後生まれたのでよく分からない」とこたえました。防衛担当閣僚の中谷さんも「戦争を知らない子供たち」の一人であった、というわけです。

中国や韓国が日本を批判するとき、もっぱら「歴史認識」という抽象的なことばをつかいます。しょうじきなところ、あまり感じはよくありません。中国や韓国が自国本意の歴史教育をしていることを棚に上げています。それでいて「日本人は自国の歴史すらよく知らないようだね、学校で先生たちはなにをおしえているのかな」と嘲笑しているようなニュアンスを言下にふくませています。

たしかに高校では日本史は選択科目で、履修しなくてもいい。選択しても、授業で古代史と現代史の学習にわりあてられる時間はすくない。だから防衛大臣はウソの答弁をしたのではなく、すなおに「よく分からない」とこたえたのでしょう。つまり歴史の知識に乏しいことを、みずから世界にむかってあきらかにしたにすぎません。リンカーンではないけれど、“Every man over forty is responsible for his face.”——いい気なものですね。

とはいえ閣僚たる者、防衛大臣たる御仁がこんな発言をして、政府のだれ一人として羞じないのはなぜでしょうか。安倍内閣には、平和憲法をまもろうとする皇室を、こころよく思っていないふしがあります。あるいは愚弄しているように思えてなりません。たとえば2月23日、50歳の誕生日をむかえられた皇太子殿下のおことばを、ふつつかながら下に引かせていただきます。


《私自身,戦後生まれであり,戦争を体験しておりませんが,戦争の記憶が薄れようとしている今日,謙虚に過去を振り返るとともに,戦争を体験した世代から戦争を知らない世代に,悲惨な体験や日本がたどった歴史が正しく伝えられていくことが大切であると考えています。》


殿下のおことばから十日もたたないうちの中谷さんの発言は、閣僚として、失言というよりも、いかにも子供じみていませんか。これでは中国や韓国が、日本の政治家の不勉強をさげすんでもやむをえない、と思わざるをえません。同僚の法相をみならって、法律をよくしらべ、答弁のしかたを勉強したら、と皮肉りたくもなります。道義にもとることでも「知らなかった」とこたえて罪を逃れられることくらいは教えてくれるでしょう。「戦争を知らない閣僚たち」の厚顔無恥は、もはやとどまるところがないのでしょうか。

ところで、拙著がでたあと、「戦争を知らない子供たち」の歌についての花森のことばは、波紋をなげかけました。作詞した北山修さんや作曲した杉田二郎さんたち関係者には、ヒット曲として親しまれていただけに、不意打ちをあたえたようです。テレビのトーク番組で、杉山さんがこの歌について、釈明めいたことを言わされておりました。それから十八年をへて、防衛大臣からまさかの妄言がとびだしました。花森の怒りがけっして的はずれではなかったことに気づかされ、いまさらながら小生も不明を恥じいります。

「戦争が終わって生まれたから、戦争のことは知らない、よく分からない」では、大人としていいわけにならないことを、小生ら戦後生まれの編集部員にむかって花森安治は訴えていたのです。その思いは北山さんにも通じたのでしょう。のちに「戦争を知らない子供たち’83」というタイトルで新たに作詞しています。その歌詞内容は、侵略をみとめたくない安倍さんたちにとっては不満でしょうが、いまや世界共通の歴史認識であるといえます。

作家の早乙女勝元さんは、「戦争を知っていたら伝えよう、知らなかったら学ぼう」とよびかけています。 現代の戦争は、なんの罪もない子供を殺します。おだやかな暮しを破壊します。苦しみと悲しみが、はてしない憎悪の連鎖をうみます。いちぶの人間だけが戦争でカネをもうけてうるおいます。始めるのはかんたんでも、終わらせるのはとてもむつかしいのが戦争です。

平和とは、戦争によって与えられるのではなく、たがいのちがいをみとめ、いのちを大切にし、暮しを尊重しあって、智慧をしぼり努力して、みんなで築きたもつ状態です。武器にたよってはダメです。花森安治は、「戦争を知らない子供たち」のために、『戦争中の暮しの記録』を編集しました。その最初に、こう語りかけています。


《君がなんとおもおうと、これが戦争なのだ。それを君に知ってもらいたくて、この貧しい一冊を、のこしてゆく。(改行)できることなら、君もまた、君の後に生まれる者のために、そのまた後に生まれる者のために、この一冊を、たとえどんなにぼろぼろになっても、のこしておいてほしい。これが、この戦争を生きてきた者の一人としての、切なる願いである》


暮しの手帖96号<特集戦争中の暮しの記録>1968


《三月十日午前零時八分から 二時三七分まで 一四九分間に
死者8万8千7百93名 負傷者11万3千62名
この数字は 広島 長崎を上まわる

ここを 單に 焼け跡とよんでよいのか
ここで死に ここで傷つき 家を焼かれた人たちを
ただ <罹災者>で片づけてよいのか

ここが みんなの町が <戦場>だった
こここそ今度の戦争で もっとも凄惨苛烈な
 <戦場>だった》
——花森安治「戦場」より



【註1】 『戦争中の暮しの記録』については、拙ブログこちらのページにも書いています。クリックしてごらんください。
http://sotei-sekai.blogspot.jp/2011/03/blog-post_27.html

【註2】 おかげさまで『花森安治の編集室』は6刷まで増刷されましたが、現在は絶版品切れです。すこし減りましたが、刊行18年後のいまもまだ、全国の公立図書館の一部に架蔵されているようです。花森のことを知りたいという方にお読みいただければうれしいです。

【註3】 拙著だけでなく、津野海太郎著『花森安治伝』、酒井寛著『花森安治の仕事』もおすすめします。

【註4】このブログの記事内容に共感していただけましたら、お知り合いにご紹介ください。 日本を再び世界に孤立させてはいけません。