2012年12月8日土曜日

【花森安治 Calendar 2013 】

花森安治 Calendar 2013 表紙

品 名 花森安治 Calendar 2013
仕 様 タテ515ミリ×ヨコ300ミリ
紙 数 表紙共13枚綴(台紙別)
発 行 株式会社グリーンショップ
発行所 東京都新宿区北新宿1−35−20
価 格 1680円(税込)


カレンダー台紙裏の奥付


花森安治カレンダー。
——ほしい、ほしい、と念じていた。そのこころを見すかすように、思いがけず、おくってくださった方がある。小生つくづく果報者だとおもう。ご恵投くださった方のお名まえを記すのは、ご遠慮したい。なぜなら「わたしはおまえさんのサンタクロースじゃないからね」と叱られそうな気がする。伊那谷から東の空にむかって、そっと掌をあわせよう。コノ後トモ何卒ヨロシクオ願イ申シアゲマス——。

このカレンダーは、花森安治が描いた『暮しの手帖』の表紙画の中から12点をえらび編んでいる。1月から12月まで、それぞれに季節を感じさせる絵柄が、やさしく美しい。現代のすぐれた印刷技術と質の良い紙が、花森のあたたかな色づかいをみごとに再現している。かけると部屋がパッと明るくなったようだ。

花森安治のデザインセンスをあらためて見なおさせてくれます。贈物になさると、あなたのセンスのよさも伝わることでしょう。ぜひお求めいただきたいカレンダーです。詳細は、下記グリーンショップのサイトをごらんください。
http://www.greenshop.co.jp/


2012年10月25日木曜日

【花森安治生誕101年】

東麻布にあった研究室で(撮影・河津一哉)


花森安治は明治44年10月25日生れ。だから、きょうは生誕101年ということになる。

その昔、花森の部下だったことのある森村桂『違っているかしら』に、花森のなみはずれた怒りん坊ぶりが描かれ、年がら年中どなりまくっているかのようなイメージが定着した。あとから小生がかいた『花森安治の編集室』でも、そのカミナリのすさまじさを描写したところがあり、<鬼編集長伝説>をさらに広めた。

しかしじっさいのところ、花森はどなってばかりいたわけじゃない。いまになってみると、つねは静かにしごとしており、むしろたのしげに笑っているときの姿が多くよみがえる。

たしかに花森のいた編集室には緊張感がみなぎっていた。だが、抑圧されているとか束縛されているという感覚は、小生になかった。身のほどもわきまえず、ずいぶん勝手なまねをして、みなのひんしゅくを買いつづけていたのが小生であった。

忘れられぬ事件がある。山形へ取材にいったときのこと、小生は記事にとってだいじな写真をとりそこねた。それを上司に口汚くののしられた。あまりの理不尽に小生はいたたまれなくなり、無断で編集室からとびだした。クビになってもいいとおもった。

数日後、怒りがおさまって出社した。くだんの上司にはわびをいれなかったが、花森にはあやまった。いや、あやまろうとしたら、花森はそれを手でさえぎるように「 人生いろいろあるよ、まあ気にすんな」と満面の笑みをうかべていってくれた。いくらどなっても、ミスをおかした部下を切り捨てるほど狭量な人間ではけっしてなかった(と断言できる)。

花森安治なきあとの編集室は、小生にとって、じょじょに息苦しい世界に変わっていった。花森さえ生きていてくれれば、そんな思いに耽るようになった。その弱さが、じぶんというものを見失わせてしまっていた。


松田道雄さんからのハガキ


花森安治がなくなって二十年の後、小生は『花森安治の編集室』をかいた。いま、その未熟な文章は、小生に恥ずかしさと痛みをもたらすが、未熟ながらも伝わるところがあったのではないか、そんな思いがしないでもない。

拙著刊行後、花森安治と『暮しの手帖』に縁が深かった人々に贈呈したところ、おもいがけず何人もの方からお返事をいただいた。なかで一番早く、いちばん簡潔で、それでいてお気持がじゅうぶん察せられたのが、松田道雄さんからのハガキであった。赤ペンで書き添えられていた言葉に、松田さんの万感の思いがこめられているようであった。


森村桂さんからのハガキ


うえは『違っているかしら』の著者であり、小生にとっては編集部の先輩にあたる森村桂さんからのハガキ。おせじ半分だろうが、こう書いてくれた。

《花森さんの真実がわかるとても澄んだ眼のご本、すばらしいです》

彼女の笑顔をほうふつさせる自筆イラストが、なぜかせつない。この無防備ともいえる純朴さが、彼女の人生には重荷だったのではあるまいか。

松田道雄も森村桂も、すでにない。彼岸はにぎやかにちがいない。



2012年9月4日火曜日

【花森安治表紙原画展をみる 追伸】


暮しの手帖 Ⅱ− 4号 1970 


花森安治の『暮しの手帖』の表紙には、よその雑誌にはない特徴がいくつかありました。いちばんは誌名のロゴです。誌名はいわば看板ですから、ふつうは一つのロゴをだいじに守り通します。しかし花森はそれをしませんでした。表紙の絵がらにあわせて、ふさわしいロゴにかき換えました。そのこまやかな美意識は、号数や発行年の文字にも向けられていて、型にはまらないように、マンネリ化しないようにという、ものを作り出す職人の意志が感じられます。


暮しの手帖 Ⅱ− 4号 法定文字の部分

つぎに見すごされがちなのが「法定文字」です。これは暮しの手帖のⅡ世紀(通巻101号)から顕著になりますが、花森安治はこの文字列を、なるべくめだたないようにデザインしました。こころをこめて描いた表紙に、あたかも土足で踏み入ってくるがごとき権力に対しての、花森の抵抗とも受けとれます。なければ、どんなにすっきりするか。

ロゴのちがいと法定文字の配置を見くらべていただきたく、なかでも特徴がきわだっていた11号と22号の表紙と部分を下にごらんいいれます。


暮しの手帖 Ⅱ−11号 1971



暮しの手帖 Ⅱ−11号 法定文字の部分


大げさにいえば11号では、誌名のまわりの白い部分を「死守」したという感じです。言論の砦としての『暮しの手帖』をなんとしても守りぬく、花森の決意がそこにうかがえます。


暮しの手帖 Ⅱ− 22号 1973


暮しの手帖 Ⅱ− 22号 法定文字の部分


22号では、法定文字をついに倒立させました。法律だから文字列を入れることにはしたがうが、いれかたまで規制するのは表現の自由の侵害。とはいうものの孤立無援、だれも文句をいわないことにリクツで張り合ってもしかたありません。こんなところにも花森安治のトンチとユーモア、鋭い批評精神がありました。

生前、花森は「見れども見えず」と部員を叱咤することしきりでした。思いこみが、ものをありのままに見えなくしてしまうのです。たとえば『暮しの手帖』という誌名を、ちかごろは「暮らしの手帖」とか「暮らしの手帳」と書いて、それがあやまちであることに気づかない人がふえました。ワープロまかせの漢字変換によっておきる誤謬ですが、ましてやそれが「子どもの頃から読んでいた」という方であったとき、 正直がっかりします。「暮らしのヒント集」はどうなんだと言われりゃ、どうしょうもないけれど。



【希望と反省】
世田谷美術館での表紙原画展は好評のうちに終りました。おわってみると、いちまつのさみしさを感じないではいられません。花森安治の職人(アルチザン)としての業績をもっと見たい、もっと多くの人に見てほしいし知ってほしい、それにはやはり表紙原画だけでは、ものたりなさをぬぐい去れないのでした。

なるべく近い時期に、たとえば世田谷文学館や松江美術館で開催されたような花森安治の全貌をうかがえるような展覧会を希望します。できれば原画と雑誌を見くらべられるよう、分けずにいっしょに展示してください。

なお、小生はこんかい家族づれで観覧できる機会にめぐまれました。併設されていた村山知義展を見おえて美術館から出たとき、花森の原画をはじめて眼にした愚息がめずらしく感想を口にしました。
「花森さんは、やっぱり天才なんだよなあ。いま見ても、ぜんぜん古くささを感じさせないもん」——百聞は一見に如かず、なのでした。

小生は不覚をとりました。メガネ(老眼鏡)をわすれたことです。つぎに行くときは、メガネはもちろん、ルーペもしっかり持参します。おのおの方、足腰をきたえ、次回開催にそなえましょう。世田谷美術館のみなさん、期待していますよ。


2012年8月22日水曜日

【花森安治表紙原画展をみる 第5信】

世田谷美術館 パンフレット 2012



世田谷美術館での花森安治表紙原画展も、のこすところ十日あまり。暑いさなかにもかかわらず、まいにち多くのかたが足を運んでいます。はじめて原画をごら んになったかたは、花森の絵のこまやかさ、あたたかく美しい色づかいに、おしなべて息をのまれるようです。おどろきはよろこびとなって、みなさんの眼が輝 いています。



作品リスト部分(著作・世田谷美術館)


会場入口で、パンフレットと「作品リスト」がわたされます。作品リストは、A3の用紙のウラ表にコピーされたものですが、じつはこれがすごい。原画全103点について、『暮しの手帖』発行年月、原画の制作年、材質・技法、そして寸法がすべて詳細に記載されており、ひじょうに資料価値がたかいものです。これを作った学芸員のかたのご苦労に敬意を表します(作品リストの一部は世田谷美術館のサイトで見ることができますが、商品テスト風景の写真や中吊広告などのデータはこちらだけ)。ファンはとうぜんながら、メディア研究者にとって、この作品リストはとっておきたいものですね。



パンフレット裏面 講演案内


パンフレットの裏面に講演会の案内がありました。デザインを優先させたためでしょうか、かんじんの案内が目立たないのが瑕瑾。いつものおせっかいで下に転載します。

講演会「花森安治の編集術」
日時:8月25日(土)14:00−15:30
講師:津野海太郎(作家)
会場:世田谷美術館 講堂
当日先着150名(午前10時より整理券配布)
入場無料 手話通訳付

かつて晶文社の名編集長として、植草甚一や長谷川四郎をはじめ国内外の作家の話題作をかず多く上梓した津野海太郎さんの花森安治論です。これはたのしみ。拝聴しなくちゃソンというもの。

2012年8月10日金曜日

【花森安治表紙原画展をみる 第4信】

世田谷美術館 花森安治表紙原画展ポスター 2012


伊那谷にいてはポスターは見られないとかいたものですから、ご親切な方がご恵投くださいました。甚々の感謝です。会期は半ばすぎてしまいましたが、このポスターをつくった人々への謝意もこめて、ブログにのせさせていただきます。

半ばすぎたとはいえ、あすからお盆休みに入るかたも多いのではないでしょうか。東京でお盆をおすごしになる方は、一日を花森安治の表紙画展でお楽しみください。美術館は冷房もきいていますし、レストランもあります。広々とした砧公園の木陰で涼むのもよく、今夏話題のクールシェアには格好の場所です。ご家族づれでどうぞ。


表紙原画展を記念して作られたしおり3種 2012


ポスターに加え、本屋さんで配られている3種類のしおりもいっしょに送ってくださいました。しおりを置いている地域はわかりませんが、きっと東京都内、美術館周辺の書店でしょう。花森安治の表紙画をいかした愛らしいしおりになっています。本屋さんでお尋ねになってみてください。


しおりの裏面(拡大)


しおりは、いま開催中の村山知義展の割引券にもなることが記されていました。村山は日本のダ・ヴィンチにたとえられます。花森安治と学生時代から親しかった扇谷正造は、花森の本質はすぐれたアルチザン(職人)であると指摘し、「私がいうアルチザンというのは、レオナルド・ダ・ヴィンチもアルチザンだという意味においてである」「職人こそ日本文化の担い手なのである」と讃えました。

2012年8月4日土曜日

【花森安治表紙原画展をみる 第3信】


暮しの手帖 Ⅱ−43号表紙 1976


夏の号の表紙で忘れられないのが43号です。
ごらんのように幻想的な絵ですが、あきらかに灯籠流しがそのモティーフにとられています。ここで花森安治は、浴衣姿の女性ではなく、白のイブニングドレス姿の女性に祈りをたくしランプの舟を流させました。これを花森の西洋趣味とかたづけるのは、やはり浅いとおもわれます。

前回の第2信で、まえ三年ぶんの夏の号をごらんにいれました。それにくらべると、この表紙は大きく志向がかわり、花森の訴えが直截に感じられないでしょうか。それは、戦争でいのちをなくした人びとへの花森のおもいに外ならない、と小生には感じられます。

とういうのも、この号にかぎって「暮しの手帖」の誌名が、絵の背景に封じ込められています。誌名ロゴすらも固定化せず、絵にあわせて書きわけていた花森でした。その花森が、いつもの均衡をやぶり、あえて絵に優位性をあたえたと小生は見ます。表紙から、何かを感じとってほしいという強いおもいが、花森にあったからではないでしょうか。


暮しの手帖 Ⅱー43号巻頭ページ 1976


この号のトップ記事は、ひさしぶりに花森みずからが先頭にたって広島県に取材したルポルタージュでした。記事の文章も多くは花森がかきました。

ことしも原爆が投下された6日と9日がやってきます。広島では8月6日の夜、爆心地のそばを流れる元安川で、まいとし灯籠流しがおこなわれています。表紙の絵には、広島への原爆投下と、原爆で犠牲になった人々への花森のおもいがこめられている、とおもえます。

原爆死没者慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませんから」と刻みつけてあります。このことばは、福島第一原発事故をおこし、大飯原発を再稼働させたいま、あらためて日本人のすべてが重く受けとめなければならない<警鐘>のようにおもえます。


小生が住む長野県箕輪町では、ことしから6日午前8時15分と9日午前11時2分にもサイレンをならし、1分間の黙禱を町民によびかかけるようになりました。伊那谷の夏空にひびきわたるサイレンの音が鳴りやんだとき、一瞬ふかまった透明な静けさが、いのちのはかなさとかなしさを想いおこさせました。

2012年7月23日月曜日

【花森安治表紙原画展をみる 第2信】

 『暮しの手帖』の第Ⅰ世紀には、女性を描いた表紙はいちどもなかった花森安治でしたが、第Ⅱ世紀ではたびたび描くようになりました。

その動機はつまびらかではありません。1970年代に入ると出版界は雑誌の創刊ブームが始まっていました。女性誌もきそって刊行されており、それが少なからず影響していたとおもいます。『暮しの手帖』が若い世代に「主婦の雑誌」とみられ、書店で手にもとってもらえず、むざむざ見捨てられてたまるか、という気持が花森にあった、とおもうのです。


暮しの手帖 Ⅱ−25号表紙 1973

暮しの手帖 Ⅱ−31号表紙 1974

暮しの手帖 Ⅱー37号表紙 1975


たとえば夏発行の<JULY-AUGUST>号だけを出して並べてみます。いかに花森が表紙のマンネリ化をさけようとし、若い女性読者層を獲得しようとしていたか、想像にかたくありません。しかも斬新であろうとしたか、つぶさにわかります。このような表紙の自由さは、とりわけ「広告をのせる台」としてのファッション誌には、なかなかできないことでした。

花森が描いた女性の表紙画のみかたは、いろいろあるでしょう。特記すべきことは、表現者としてのこの<自由>さです。かつてこのブログで、花森が中原淳一を評したことばを紹介し、それを小生は花森の自戒とみたてました。

《彼(=中原淳一)が、いまさら芸術家扱いされたがったり、「抒情画家」でなく「画家」になりたがったりすることは、愚劣である。インテリぶる必要などましてない。第一できない。
ふてぶてしく、俺は叙情画家である、俺は少女相手の画工である、とうそぶける不敵さ、その面だましいを身につけることである。その方が、かえって彼の悲願にも案外近づくことになるのではないか。》

「僕はほんものの絵描きじゃないから表紙画を描けるんだ」と花森は言っていますが、その真意は中原への評言からもうかがえそうです。世田谷美術館の矢野進学芸員も「花森作品の持つ魅力は、色々な画材で好きなスタイルを自由に試みたあたりにありそうだ」と指摘します。(花森安治が描いた表紙画『花森安治 美しい「暮し」の創始者』河出別冊2011年刊所収)


【耳よりな話】世田谷美術館展示室には、暮しの手帖社の協力により花森安治編集の『暮しの手帖』も供されており、観覧者が自由に手にとって、ソファーでゆっくりごらんいただけるようです。観覧料200円は安すぎです(月曜休館)。



2012年7月14日土曜日

【花森安治表紙原画展をみる 第1信】


美しい暮しの手帖 創刊号原画 1948


こんかいの花森展の開催に尽力された世田谷美術館の矢野進学芸員は、花森がいった「僕はほんものの絵描きじゃないから表紙画を描けるんだ」ということばに着目しています。というのも、表紙を描いたり装釘をしたりする職業画家は、昔も今もたくさんいるからで、花森のことばを意地悪くとれば、表紙をかくような画家は「ほんものの絵描きじゃない」という意味にもうけとれ、語弊をまねきかねないからでしょう。


花森のことばの意をおしはかるには、それが表紙になったときを待たなければなりません。たしかに原画をみれば、印刷した表紙からうかがえなかった繊細なタッチや色合いの美しさがつぶさにわかるのですが、絵心のある方には、何かものたりない、あるいはどこか間のぬけている印象がまぬかれない筈です。表紙につきものの誌名、号数、発行月などが原画にはないからです。


美しい暮しの手帖 創刊号表紙 1948


花森の絵は、表紙になったときはじめて完成します。つまり、ほんものの絵描きは、構図にスキのある描き方をしないし生理的にできない、絵それじたいで完結した世界を描く、と花森は言いたかったのだとおもいます。さらにいえば、原画のもつ色あいとそれが印刷されたときの色あいの違いに寛容でなければ「描いてられるか、ガマンならない」という気持もあったとおもいます。(いまは事情が変わっており異論もありましょうが)。


暮しの手帖 Ⅱー52号原画 1978


この春、島根県立美術館で花森展を企画した上野小麻里学芸員は、《全体を通してみると、似たイメージのパターン化を避けながら、ほどよい甘さと表紙としてのインパクトを同時に追求した作画である。自らが編集する雑誌へのゆるぎない信念と情熱とを背景にして描くため、否応なく人の目をひきつけてしまうのではないか。(中略)書店で他誌と並んだとき、この雑誌の特異性が際だったにちがいない。——「努力する手」松江文化情報誌『湖都松江』vol.23所収》と評しています。


暮しの手帖 Ⅱー52号表紙 1978


花森安治にとって、表紙やイラストをかくことは、画家として芸術性を追求したのではなく、あくまで編集者としての職人しごとの一つであった、といえるのではないでしょうか。


【あらずもがなのご案内】



世田谷美術館が発信している「セタビブログ」によると、館内のミュージアムショップでは、こんかいの開催にあわせ花森安治のデザインをつかった商品を多数あつかっているとか。ねだんの手ごろさもあり、なかでも原画のポストカードがよく売れているそうです。小生もカードを小さな額にいれ、季節とりどりに入れかえ、壁にかけています。花森の絵にはファンタジーが感じられます。人災天災に翻弄される人間にとって、だからこそファンタジーをだいじにしたいとおもっています。


2012年6月30日土曜日

【世田谷美術館 花森安治表紙原画展】

暮しの手帖 Ⅱー23号 1973  


世田谷美術館で花森安治の表紙原画展がはじまりました。
おそらくポスターやチラシが都区内では配布されているのでしょうが、小生がくらす信州伊那谷では望むべくもありません。美術館の公式ホームページに次のように告知されています。


花森安治と『暮しの手帖』ミュージアム コレクション2012-II
2012年6月30日~9月2日 2階展示室

「暮しの手帖」編集長にして、ジャーナリスト、装釘家、デザイナーといった多彩な顔を持つ花森安治(1911-1978)。本展は『暮しの手帖』表紙原画を中心に、雑誌宣伝のために制作した「新聞広告」や「中吊り広告」などを加え、花森の個性的なデザインの仕事をご紹介します。また、素朴派のアンドレ・ボーシャンもあわせて展示します。

観覧料:一般/200円(160円)大・高生/150円(120円)中・小生、65歳以上/100(80円)
小中学生は土・日・休日は無料 ( )内は20名以上の団体料金、障害者割引あり
休館日:毎週月曜日(休日の場合は開館し、翌火曜休館)

暮しの手帖35号 1956(左) 同19号 1953(右)

2006年世田谷文学館また2012年島根県立美術館の展示とちがい、こんかいは美術館所蔵の表紙原画のほか車内中吊りポスターと新聞広告などに限られています。花森安治と『暮しの手帖』にゆかりの品や装釘本は残念ながらありませんが、表紙画家、広告デザイナー、さらにはコピーライターとしての花森安治の多彩な持ち味が、十二分につたわります。

暮しの手帖30号 1955(左) 同42号 1957(右)

<交通■電車とバスで来館の方>
(1)東急田園都市線「用賀」駅 美術館行バス「美術館」下車 徒歩3分「用賀」駅より徒歩17分徒歩
(2)小田急線「成城学園前」駅 渋谷駅行バス「砧町」下車 徒歩10分
(3)小田急線「千歳船橋」駅 田園調布駅行バス「美術館入口」下車 徒歩5分
(4)東横線「田園調布」駅 千歳船橋行バス「美術館入口」下車 徒歩5分


暮しの手帖社営業企画部のツイッターによれば、初日から多くの観覧者でにぎわっているとか。世田谷文学館や島根県立美術館のときと同じく、くりかえし訪れるリピーターが多いのが花森ファンの特色といえるかもしれません。暮しむきの不安感がつよい時代にあって、花森安治のやさしく愛らしい色彩感覚が、見る人に希望とやすらぎをあたえるからではないでしょうか。表紙原画全 103点の一挙公開は今回がはじめてです。その目でぜひ、美しい原画をごらんになって下さい。



暮しの手帖 Ⅱー1号 1969 





【哀悼】新聞などで知らされていますように、花森安治の愛弟子の一人、暮しの手帖二代編集長であった宮岸毅が、さる六月二六日なくなりました。

宮岸は、いわゆる蒲柳の質ともうせば語弊があるかもしれませんが、けっして頑健なほうではなく、いくども大きな手術をうけ満身創痍でした。しかし、そのつど闘病再起をはたし、男子最古参の編集者として、また経営顧問として、暮しの手帖社にその一生を捧げました。こんどの展覧会開催をまたずして逝ったのが、とても残念です。

花森安治の存在が大きかっただけに、そのあとを継ぐには筆舌に尽くせぬ苦労があったはずです。「もう放り出したいよ、おまえさんがうらやましいよ」と、できの悪い後輩の小生にむかって、ときおり弱音ともとれるセリフを吐きましたが、「おれがやらなければどうなる」という自負を、つねにその痩躯に背負っていることが察せられました。

花森は生前、「宮ちゃん」と呼んでいました。ごくたまに「宮岸クン」とあらたまることがありましたが、報告・連絡・相談をまめにおこない、花森を怒らせることはまれでした。いまごろあちらで、親方からやさしくねぎらわれているに相違ありません。いいえ、きっと美術館にふたりならんで、たのしそうに見ている、小生にはそう思えます。

先輩のはにかんだ笑顔がうかびます。冥福を祈ります。合掌






暮しの手帖 Ⅱー51号 1977


2012年5月2日水曜日

【松江だより 花森安治展 補遺】

●オープニング・ギャラリートーク

島根県立美術館でひらかれた《くらしとデザイン「暮しの手帖」花森安治の世界》は、美術館としては異色の展覧会であった。表紙やイラストの原画はもとより、装釘本やポスターばかりでなく、『暮しの手帖』と花森安治ゆかりの品々までもが一堂に供された。

たぐいまれな天才編集者の全貌を知ってもらおうという意図は、天野祐吉さん、高橋一清さん(松江観光協会・元文藝春秋編集者)、矢野進さん(世田谷美術館主任学芸員)らの講演会企画にもうかがわれた。それらは映像と共に記録され、後の世に伝えられるだろう。

開催初日、展示室でギャラリートークがあった。話者は、花森安治のもとで働いた元編集部員の河津一哉(82)。その下書きのメモをちょうだいしたので、ここに紹介したい。その前に『暮しの手帖』2世紀第7号(1970)にのせられた小さなコラムを読んでほしい。筆名こそちがうが書いたのは河津であり、手直ししたのが編集長花森であった。


『暮しの手帖』2世紀第7号(1970) 雑記帳より


●河津一哉トークのためのメモ

私が花森編集長ひきいる暮しの手帖編集部の一員となったのは、昭和32(1957)年のことでした。花森さんが亡くなるのは52(1977)年です。50年代の末から70年代の末まで、ざっと20年間、皆さんがこれから会場でごらん頂くような天才のもとで働くという幸運にめぐまれました。

昭和30(1955)年前後から、いわゆる家庭電化時代が始まって、暮しの手帖は商品テストの雑誌として有名になってゆきます。

初めのころ花森さんは「商品批評」という言い方をしていました。映画や演劇や書物や絵画、音楽に批評があるのに、我々の暮しを支える「もの」についての批評がないのはおかしい、商品の欠点を指摘すると「営業妨害」という反撥を受けるのも奇妙な話だというのです。

事実、その営業妨害で訴えられたことがありました。配線器具をテストしたときで、メーカーの言い分は、我々はJIS(日本工業規格)の規定通りの耐久テストをして、それに合格したものを売っているのだ。それにケチをつけるとは何事だというわけでした。

それに対する花森さんの批評の方法、つまりテストの方法は、徹底的にじっさい使うときの条件にして、じっさいに動かし使ってみる、そしてその結果起こった事実だけをふまえてモノを言う、そういうやり方でした。

入りたてでしたからハッキリおぼえています。板にとりつけたコンセントにプラグを手に持って、来る日も来る日も差し込んでは抜き、差し込んでは抜きして、10回ごとに回数を紙に書きこむ、を繰り返します。自動装置にしてガチャンガチャンと抜き差しさせるわけではありません。当時の中国の人海戦術のようなもので、なんという労力のムダだろうと思ったものです。しかし、じっさいにやってみなければわからないことがやはり起こるのでした。そして、じっさいに起こった結果ですから、どんな抗議にも訴えにも、ひるまないですみました。結局そのメーカーは訴えを取り下げたのです。私が花森さんの考え方に目をみはった最初でした。

じつは我々もテストをするとき、JISのテスト方法もいちおうはやってみました。しかし〈使っている状態で〉テストするという原則が第一ですから、JISは参考にするだけで、必ず自分たちの暮しの場で使われる状態に近いテスト方法を工夫しています。

たとえば掃除機の性能を表わすのに、JISでは「真空度」を測って「吸込み仕事率」というワットで示す表わし方をします。しかしこれは、いうならモーターそのものの力です。じっさいにゴミを吸込む具合というものは吸い口をつけてみないとわかりません。やってみると、吸い口の形や構造で吸込み具合のよしあしが決まることがわかります。モーターの力は少々弱くても、吸い口の構造がよくできていると、なかなか吸込み性能のよい掃除機だということになります。

換気扇の最初のテストのとき、こんなことにおどろきました。風量を測ったり、スイッチの耐久力をしらべたり、これが型通りすんで、換気扇の下でいろいろ煮炊きをしてみたのです。家で換気扇のよごれ取りをなさった方ならおわかりでしょう、そのよごれたるや並大抵のものではありません。最初のテストでは、そのよごれの取りにくさ、掃除のしにくさ、これはひどいものでした。羽の先から油が天井や壁にとびちる。キカイにこびりついた油を拭き取ろうにも分解しにくい。これを作ったひとはじっさいのよごれがどのくらいすごいか、使ってみたことがないのだろうか、と思ったくらいです。

こんなことは、じっさいに油でいためものなどをやってみればすぐわかることです。テストはあくまでもシロウトの、生活する者の立場から、じっさいに使われるとおりにやったのでした。最初はバカバカしく思ったものです。すると、かならず、まさかというような欠点が浮かびあがるのでした。

こんなことがありました。ある大メーカーの大きな研究所に取材にいったときのこと、そこの所長さんが、「うちには博士が何百人もおります」と言いました。花森さんはこれに対して「うちにはひとりも博士はおりません」と答えました。生活する者の立場に立ち、自分の目や手でためしてみれば、理学博士、工学博士の作った物でも批判できるという経験があったからこそ言えるコトバでした。

暮しの手帖の商品テストは、消費者協会や国民生活センターがやろうとしている、いわゆる消費者擁護のためのテストではありません。花森さんは創刊100号をむかえたとき、《商品テスト入門》という記事を書き、その冒頭で「商品テストは消費者のためのものではない。生産者のためのものだ」と言い切りました。

商品を見る目をきたえろ、かしこい消費者になれ、などという上から目線に花森さんは反対でした。こざかしい消費者になんかなることはない。第一、やりくりに追われる毎日、そんなヒマなどない筈だ。「店にならんでいるものが、ちゃんとした品質と性能を持つものばかりなら、あとは自分のふところや趣味と相談してどれを買うか決めればよい。そんなふうに、作る人が考えて努力してくれるような世の中になるために、〈商品テスト〉はあるのだ」、というのです。

「〈商品テスト〉はハッキリ商品名をあげる。もしそのテストが信頼されていたら、よいといわれた商品は売れるし、おすすめできないといわれた商品は、売れなくなる。だから、〈商品テスト〉は、メーカーに、いいものだけを作ってもらうための最も有効な方法なのだ」、というわけです。

花森さんは、テストする商品の数はなるべくしぼろうとしました。レジャー用品はとりあげません。そんなどっちでもいい商品まで手が回らないからです。商品テストを売り物にしてはならぬ、とよく言いました。雑誌が売れるためには、あまり必要でなくてもネダンの高い商品を取上げなければならなくなるからです。

暮しの手帖の商品についての記事は、全体の2割にすぎません。商品テストの品目をえらぶのに、ほんとうに必要なものだけをえらぶようにつとめれば、テストの報告の質も高まります。

とにかく商品の数は多いし、調べる能力もかぎられていますから、暮しの手帖が行うテストは年間でせいぜい約40品目、これに対し、アメリカのコンシューマーズ・ユニオンは70品目で、自動車のテストがセールスポイントになっています。200万部ちかい発行部数があるか何とかできますが、日本の程度の部数では、車のような高額のものはムリです。

商品の数は圧倒的に多いのですから、国民生活センターやコンシューマーズ・ユニオンがいくら〈消費者のための商品テスト〉といっても、対象品目が少なすぎるという不満がどうしても出てきます。

〈商品テストは生産者のため〉とした花森さんのねらいは何だったのでしょうか。花森さんの別の言い方を思い出します。「大量広告時代というが、知りたいことは知らされず、知りたくもないことばかり知らされている。なにが情報過剰時代なものか、むしろ過少時代だ」と。つまり、花森さんは、売り手の立場からつくられた商品情報を、使い手の立場からつくり直し、ノシをつけて売り手に送り返したのです。

このシロウトの批判を、でも家庭電器産業界は〈かしこく〉受け入れていきました。消費者のこまごまとした注文に密着した工夫と開発を重ねてきました。物みな高くなるばかりの時代に家庭電器は全体に性能を高め、価格も相対して安くなってきたとおもいます。

私たちが、JISをテスト方法としては軽く視ている間に、メーカーは品質管理につとめ、いまではひところのような一見して粗雑さがわかる製品は見られなくなりました。

花森さんがはじめた商品テストは、こんなふうに直接消費者に向けたものではありませんでしたが、こうして、まわりまわって、まだ理想の程度からはほど遠いながら、消費者にとって商品の改良進歩をもたらしてきたと思います。

さて、このように花森さんの考え方は、頭で緻密な理論を組み立てていくというやり方ではなくて、まず自分で手を下して五感で感じとり、確かめたものを積み上げてゆくというやり方でした。

花森さんのこんな考え方を、河合隼雄さんは西洋流の〈実証主義〉と区別して〈手ざわりの思想〉と呼びました。

お読みになった方もいらっしゃると思いますが、『花森安治の編集室』という本を書いた唐澤平吉君は、最近、花森さんの考え方のもうひとつの呼び方を私に教えてくれました。〈親試実験〉というコトバです。「シンシ」とは、親しく試みると書きます。他人にたよらず自分で試し、実証しようとする姿勢。江戸中期これを唱えたのは京都の吉益東洞(1702~1773)という漢方医でした。西洋系の医学より先に近代的な実験医学の立場を主張したのです。あの華岡青洲は東洞の息子の弟子です。唐澤君は精神科医の中井久夫さんからそのことばを教わったそうです。

皆さまはこの会場いっぱいに並べられた一人の人物の多彩な才能をごらんになるでしょう。自分のもつ才能のありったけを駆使して花森さんはいったい何をめざしたのか? 我々ひとりひとりが〈守るにたる〉自分の暮しを築くための役に立つ雑誌を作ろうと努力する一人の天才の姿を、お感じ取りになるとおもいます。

ここで、私の個人的なおもいでをお話しすることをおゆるしください。

さきほど申しました中井久夫先生の、『日本に天才はいるか』という短いエッセイ(『家族の深淵』みすず書房1995年刊所収)のなかに、「天才のまわりには自分が天才でないと自覚している人が集まって、天才を育てることを生涯の喜びとする」イタリアの話が出てきます。読んだとき、私は花森さんを思い浮かべました。さらに、「天才は個人現象というより小集団現象です」というくだりを読んだとき、私は暮しの手帖の表紙の裏や目次のなかに小さい字で刷られている、その号をつくりあげるのに係わった編集はじめ製作、印刷、製版、製本のみんなの名前を思い浮かべました。

思い出はさらに、1970年の第8号の巻頭をかざった『見よぼくら一銭五厘の旗』のなかのあの有名な章句へ飛びました。〈民主主義の<民>は庶民の民だ〉〈ぼくらの暮しをなによりも第一にすることだ〉〈ぼくらの暮しと企業の利益とがぶつかったら企業を倒すということだ〉〈ぼくらの暮しと政府の考え方がぶつかったら政府を倒すということだ〉へ。あの有名なくだりです。

そして私のおもいでは、さらにその一号前の第7号、『雑記帳』(それは編集部員も投稿を求められているコラムの頁ですが)という頁にさかのぼります。私が出した150字のレコード紹介の小さな記事は、「フィフス・ディメンション」という名の5人コーラスのレコードでした。その歌は、なんとアメリカ合衆国の独立宣言をそっくりそのまま歌うのです。こいつはスゲエと感動して全歌詞を長々と書き写し提出したのでした。花森さんは目にとめて、私の長々しい丸写しをつぎのように削って採用してくれました。「……政府というものは、全ての人の生命、自由及び幸福の追求の権利を確保するために、治められる者の同意に基づいて設けられたのである。いかなる形の政府であっても、この目的を害するものとなる時は、それを変革し、あるいは廃止することは、国民の権利である……」

『一銭五厘の旗』のあのくだりを次の第8号で初めて見たときの私のひそかなほこらしい喜びが、いまでもよみがえります。天才は独立宣言をみごとに自分のことばにしていたのです。

(この後、会場に設置されたスクリーンに1966年におこなった火事のテストの8ミリ録画を映写し、その解説にうつります。下書きメモは、ここでおわっていました)


【あらずもがなのひとこと】
尊敬する先輩のことばの中に、愚生および拙著のなまえがとびだし、おどろきとはずかしさがこみあげましたが、そのまま掲載することにしました。先輩と愚生とは年の差が大きいように、花森のもとで働いた年数も大きくちがいます。しかしながら愚生のような人間でも、花森安治という偉大な思想家のもとで働くことができたことに<誇り>を感じていい——そのことを先輩は、あえて公の場で言ってくれたようにおもえたからです。先輩にはこれからも、花森安治と『暮しの手帖』を、もっともっと多く語り伝えてほしいものです。そばにいて見聞きした具体的な事実は、知りたいと欲している者の想像力をかきたて、すぐにではなくとも、必ずや役に立つはずです。

2012年4月21日土曜日

【松江だより 花森安治展 その3】

●松江文化情報誌『湖都松江』

2012 第23号表紙


誌 名 湖都松江 第23号    
表 紙 吉田静佳
編 集 湖都松江編集委員会
統 括 高橋一清
発行日 平成24年3月23日
発 行 松江市文化協会
発行所 松江市末次町86 松江市役所観光文化課内
印 刷 アイム株式会社 
判 型 B5判 無線綴じ 本文80ページ
定 価 400円(税込)


島根県立美術館でおこなわれた花森安治展は、四月九日ぶじ全日程をおえて閉幕した。実質40日余の開催であったが、来館者総数のべ15,273人をかぞえた。美術館がある松江市内はもとより、県内外から多くの人が訪れ、なかには七回も足繁くかよった方があったという。

六年まえに世田谷文学館でひらかれたときと同じで、往年の『暮しの手帖』ファンが多かったようだが、それにもまして今回も、若い人々が多かったと聞く。花森がかいた表紙やイラストの原画など、どれも描かれて半世紀近く、あるいはそれ以上たつが、いまなお輝きを失わないその新鮮な美感覚が、観覧した老若男女を魅了したにちがいない。

松江文化情報誌『湖都松江』第23号をちょうだいした。年2回発行の郷土誌で、出雲の歴史と文化、風物やゆかりの人物をひろく伝えることを刊行趣旨としている。今号から「松江人物風土記」と題する企画が始まり、おりしも生誕百年をむかえた花森安治と中村元のふたりが、その端緒を飾ることになった。

花森安治については、ご息女の土井藍生さんが「生きる知恵——父花森安治に教わったこと」、島根県立美術館主任学芸員で花森展を企画担当した上野小麻里さんが「努力する手」——花森安治グラフィックのしごとから——、また本誌編集統括者であり元文藝春秋編集者の高橋一清さんが「編集者花森安治と松江」を寄稿している。

藍生さんはむろんのこと、若い上野さんも、池島信平の部下であった高橋さんも、三者三様に花森安治への敬慕の思いが深く文章にきざまれていて、清々しい読後感にひたることができた。こんかいの展覧会にふさわしい「副読本」といえよう。花森ファンにご購読をおすすめしたい。


湖都松江 23号 目次

<問合せ先>〒690ー8540 松江市末次町86番地 松江市役所観光課内 
松江市文化協会 湖都松江編集部 電話0852ー26ー1157

2012年3月7日水曜日

【松江だより 花森安治展 その2】

●しおり
チケット半券でしおりを作る


【ひとこと】今回の花森安治展の会場出口に、たのしいコーナーがある。入館チケットの半券でしおりを作る特設ブースがそれだ。手づくりの味わいを愛した花森安治の展覧会ならではの美術館の粋なはからいは、感動の余韻をさらに深める。

上がその完成品で、これを送ってくださった方によれば、パンチでアナをあける位置を正確にさだめるのが、けっこう難しいらしい。おりしも来場中の、本展開催に協力した暮しの手帖社の若き営業ウーマンが、しんせつに手伝ってくれたとのこと。やさしさは、花森が好んで描いたランプのように、人の世をあたたかく照らす。

美術館で、いっしょに作ってみましょうよ。



1983


書 名 家電今昔物語   
著 者 山田正吾(聞き書き森彰英)
装 釘 田淵裕一
発行者 上野久徳
発行日 昭和58年7月10日
発 行 三省堂
発行所 東京都千代田区三崎町2−22−14 
判 型 四六判 上製丸背ミゾ カバー 糸綴じ 本文216ページ
定 価 1400円

【もうひとこと】 しおりをはさんでみた。せっかくだから、花森安治にちなむエピソードをふくむ本にはさんだ。NHK番組プロジェクトXに紹介されて知ったひとも多いはずだけれど、著者は電気釜を発明した山田正吾氏。こんな箇所があった。《》で引用する。

《実は、電気釜を作ったときに、こっぴどくやられたのは「暮しの手帖」でした。たしか「便利なようで不便な電気釜」という斬り口の記事でした。しかし一年後に、当時、出揃った電気炊飯器の商品テストをした記事が掲載され、このときは叩いても見守ってくれていたのだなと、編集者の公正さにホッとしたことを覚えています。

それから二十年近くたってから、花森安治氏といろんなことをお話ししていたとき、こう言われました。
「政府が真っ先に勲章をやるべき人が二人いる。その一人はインスタントラーメンを考えた人、もう一人が電気釜を考えたキミだよ」
私はたちどころに「いやですよ、おカマの勲章なんて」と答え、大笑いになりましたが、このように、花森氏を含め「暮しの手帖」には懐かしい思い出が多いのです。》

——花森の考える商品テストは「文明批評」であり、消費者のためでなく、生産者のためであった。意地悪な欠点さがしではなかったことは、山田氏の言からもあきらかであろう。展覧会開催初日のギャラリートークで、元編集部員の河津一哉(81)が、往時の「暮しの手帖」の商品テストについて語ったそうだ。尊敬する先輩の話、聞きたかったなあ。


2012年3月2日金曜日

【松江だより 花森安治展 その1】

●パンフレット

パンフレット表紙


編集人 上野小麻里(島根県立美術館主任学芸員 本展企画者)
発行人 くらしとデザイン『暮しの手帖』花森安治の世界 実行委員会
発行所 島根県松江市袖師町1−5 島根県立美術館
印刷所 有限会社松陽印刷所
判 型 タテ155×ヨコ105(ミリ)表紙とも全16ページ 中綴じ
無 料


【ひとこと】さきごろ開幕した松江の花森安治展は、見る人に春の日ざしのような暖かな感動をあたえ、稀代の天才編集者への関心は、日ましに高まっているようだ。いわゆる雑誌編集者のしごとから漠然とうけるイメージとはひと味もふた味もちがう、それは細やかで美しい手しごとの世界が、眼前にくり広げられているからであろう。おどろきの声と感嘆のため息が、会場のそこかしこにもれているという。

開催当日、展覧会を訪れた方から、愛らしいパンフレットをお送りいただいた。わずか16ページだが、本展企画者である上野小麻里さんの、卓越したセンスがひかっている。花森安治と『暮しの手帖』のスピリットを、みごと凝縮している。感にたえた。

資料としての価値が高い。花森安治が編集した『暮しの手帖』でテストした商品の全品目を、4ページにわたって列挙した。そこに昭和の暮しがあった。それを見つめたジャーナリズムがあった。ひとは花森安治と『暮しの手帖』のしごとを如実に知ることができる。

花森安治は言っていた。「買った人にオツリがきたと喜んでもらえる、それが親切な商品だ」——さしずめ松江での花森展は、この出色のパンフレットを手にすることにより、訪れたひとは予期せぬオツリがきたと必ずや、うれしくなるにちがいない。

誘いあって行かなくっちゃ!

2012年1月27日金曜日

【くらしとデザイン『暮しの手帖』花森安治の世界】

●島根県立美術館の案内リーフレット

オモテ面
ウラ面

【ひとこと】百聞は一見に如かず。門田勲にならって申さば、
「アルチザン花森安治の、能書のないところを、篤とごらんあれ」——と言ってもピンと来ないかもしれぬ。今様に申すなら、古美術鑑定家の中島誠之助さんふうに、「ほんものに間違いありません。いい仕事してますねえ。すばらしい作品を見せてもらいました」と感激すること請け合い!

2012年1月14日土曜日

【森の休日】花森忌によす

きょうは花森安治の祥月命日である。

花森は昭和53年(1978)1月14日未明なくなった。だから三十五回めの忌日にあたる。かくもながい歳月がたったのかとおもうけれど、いまもその日のことは、忘れられない。父や母が死んだ日のことを憶えているのとおなじである。

正月二日、家族で青山にお参りしたあと、ことしも芝増上寺に寄った。花森安治の墓所がある。御佛前にはいつものように正月らしいお花と共にお菓子が供えられていた。それだけでなく、ことしはま新しい五冊の本がお供えしてあった。ご家族のこころがしみじみ伝わる。お参りしてやっぱりよかった。

きょねんの暮だった。読売新聞夕刊「見聞録」に〝「暮しの手帖」は今〟という連載記事がのった。機関銃をぶっぱなすかのような歯切れのよい文章に、小生ごときアタマのわるい老人はめんくらったけれど、おかげで唯一理解できたことばがあった。引用する。

《「どんな評価が加わっても構いません。父の仕事の意味を考えてくだされば」》

——花森安治のご息女、土井藍生さんのことばであった。このひと言によって、ほかの記事文言がすべてかすんでしまったのを、小生おもわずにはいられなかった。5回の連載ながら、そのどこにも花森安治の「仕事の意味」について言及されていなかったからだ。撃たれた。さすが花森安治の愛娘である。

それゆえ小生こうも読めた。新聞の記事で花森安治に関心をもったひとは、まずは生誕百年を記念して刊行された五冊の本を読んで、いまこそ「花森安治の仕事の意味」を考えよう——あるいは記者も、裏声でそう呼びかけたかったのではあるまいか。尾崎真理子さんという記者、なかなかの皮肉家と見た。以下に五冊をかかげる。



花森安治戯文集1 カバー

書 名 花森安治戯文集1   
著 者 花森安治(1911.10.25−1978.1.14)
装 丁 坂口顕+新野富有樹
発行者 中村文孝
発行日 平成23年6月20日
発 行 LLPブックエンド
発行所 東京都千代田区神田錦町3−11−8武蔵野ビル302
印 刷 株式会社シナノパブリッシグプレス 
判 型 A5判 上製丸背ミゾ カバー 糸綴じ 本文336ページ
定 価 2500円+税



花森安治戯文集2 カバー

書 名 花森安治戯文集2   
著 者 花森安治(1911.10.25−1978.1.14)
装 丁 坂口顕+新野富有樹
発行者 中村文孝
発行日 平成23年9月10日
発 行 LLPブックエンド
発行所 東京都千代田区神田錦町3−11−8武蔵野ビル302
印 刷 株式会社シナノパブリッシグプレス 
判 型 A5判 上製丸背ミゾ カバー 糸綴じ 本文336ページ
定 価 2500円+税


花森安治戯文集3 カバー

書 名 花森安治戯文集3   
著 者 花森安治(1911.10.25−1978.1.14)
装 丁 坂口顕+新野富有樹
発行者 中村文孝
発行日 平成23年12月10日
発 行 LLPブックエンド
発行所 東京都千代田区神田錦町3−11−8武蔵野ビル302
印 刷 株式会社シナノパブリッシグプレス 
判 型 A5判 上製丸背ミゾ カバー 糸綴じ 本文340ページ
定 価 2500円+税


KAWADE夢ムック 文藝別冊花森安治 表紙

書 名 KAWADE夢ムック 文藝別冊 花森安治    
装 丁 重実生哉
編 集 大西香織
発行者 小野寺優
発行日 平成23年12月30日
発 行 河出書房新社
発行所 東京都渋谷区千駄ヶ谷2−32−2
印刷者 北島義俊
印 刷 大日本印刷株式会社 
判 型 A5判 並製 無線綴じ カラー共本文232ページ
定 価 1200円+税


花森安治のデザイン カバー

書 名 花森安治のデザイン   
著 者 花森安治(1911.10.25−1978.1.14)
装 本 佐藤礼子
発行者 阪東宗文
発行日 平成23年12月19日
発 行 暮しの手帖社
発行所 東京都新宿区北新宿1−35−20
印 刷 凸版印刷株式会社 
判 型 B5判 並製 無線綴じ カバー 本文184ページ
定 価 2200円+税


花森安治生誕百年を記念し、とにもかくにも五冊の本が上梓されたことをよろこびたい。さらに欲を申すならば、いまだ未整理未収録の作品がまとめらることを切望する。花森安治の思想をみとめるのであれば、その思想は時をへても、かならずや人々の暮しに生きて、いつの世にも輝くにちがいない、と信ずるからにほかならぬ。花森安治の思想は、その人生とそのしごとの中に、だれの目にもあざやかだ。


【お礼とおわび】昨年10月25日をもってブログの更新を止めましたが、いまだに閲覧してくださる人が絶えません。正直、おどろきもし、ありがたいとおもっております。調子にのったわけではありませんが、きょうは祥月命日ですから、言わずもがなのことを綴りました。ご寛恕いただければしあわせです。

なお、タイトルの「花森忌」は小生がかってにつけたもの。くれぐれも早とちりなさいますな。日本が生んだこの偉大なアルチザン花森安治の命日に、どなたか佳いよびかたを考えてくださいませんか。