2012年10月25日木曜日

【花森安治生誕101年】

東麻布にあった研究室で(撮影・河津一哉)


花森安治は明治44年10月25日生れ。だから、きょうは生誕101年ということになる。

その昔、花森の部下だったことのある森村桂『違っているかしら』に、花森のなみはずれた怒りん坊ぶりが描かれ、年がら年中どなりまくっているかのようなイメージが定着した。あとから小生がかいた『花森安治の編集室』でも、そのカミナリのすさまじさを描写したところがあり、<鬼編集長伝説>をさらに広めた。

しかしじっさいのところ、花森はどなってばかりいたわけじゃない。いまになってみると、つねは静かにしごとしており、むしろたのしげに笑っているときの姿が多くよみがえる。

たしかに花森のいた編集室には緊張感がみなぎっていた。だが、抑圧されているとか束縛されているという感覚は、小生になかった。身のほどもわきまえず、ずいぶん勝手なまねをして、みなのひんしゅくを買いつづけていたのが小生であった。

忘れられぬ事件がある。山形へ取材にいったときのこと、小生は記事にとってだいじな写真をとりそこねた。それを上司に口汚くののしられた。あまりの理不尽に小生はいたたまれなくなり、無断で編集室からとびだした。クビになってもいいとおもった。

数日後、怒りがおさまって出社した。くだんの上司にはわびをいれなかったが、花森にはあやまった。いや、あやまろうとしたら、花森はそれを手でさえぎるように「 人生いろいろあるよ、まあ気にすんな」と満面の笑みをうかべていってくれた。いくらどなっても、ミスをおかした部下を切り捨てるほど狭量な人間ではけっしてなかった(と断言できる)。

花森安治なきあとの編集室は、小生にとって、じょじょに息苦しい世界に変わっていった。花森さえ生きていてくれれば、そんな思いに耽るようになった。その弱さが、じぶんというものを見失わせてしまっていた。


松田道雄さんからのハガキ


花森安治がなくなって二十年の後、小生は『花森安治の編集室』をかいた。いま、その未熟な文章は、小生に恥ずかしさと痛みをもたらすが、未熟ながらも伝わるところがあったのではないか、そんな思いがしないでもない。

拙著刊行後、花森安治と『暮しの手帖』に縁が深かった人々に贈呈したところ、おもいがけず何人もの方からお返事をいただいた。なかで一番早く、いちばん簡潔で、それでいてお気持がじゅうぶん察せられたのが、松田道雄さんからのハガキであった。赤ペンで書き添えられていた言葉に、松田さんの万感の思いがこめられているようであった。


森村桂さんからのハガキ


うえは『違っているかしら』の著者であり、小生にとっては編集部の先輩にあたる森村桂さんからのハガキ。おせじ半分だろうが、こう書いてくれた。

《花森さんの真実がわかるとても澄んだ眼のご本、すばらしいです》

彼女の笑顔をほうふつさせる自筆イラストが、なぜかせつない。この無防備ともいえる純朴さが、彼女の人生には重荷だったのではあるまいか。

松田道雄も森村桂も、すでにない。彼岸はにぎやかにちがいない。