この伊那谷へひっこして来たとき、前回紹介した京都の町家で工房をいとなむ幼なじみの洋ちゃんが、手づくりの壁掛けを贈ってくれました。ごらんのように、何枚もの端布を縫い合せただけのもので、なんだかボロ布のつぎはぎのようです。しかし、ふしぎと見ていてあきません。洋ちゃんからコピーをそえた手紙がとどきました。
<西陣織帯縫合壁掛け> 作 村山洋介(集芸舎代表) |
コピーは山形県上杉神社所蔵の「金銀欄緞子縫合胴服」の写真と解説でした。「身頃は前二筋、後は三筋、袖は二筋にたてに割り、それぞれの筋に金銀欄、緞子などの外来裂を氷割れ風に縫い合わせてある。その裂(きれ)の種類はおよそ十五種あり、白・黒・黄・萌黄・浅葱などの色どりも美しい」とありました(至文堂『日本の美術』第12号'67/4)。
洋ちゃんが贈ってくれた壁掛けは、上杉謙信がきたという胴服のカットパターンに似せて作ったものでした。素材は、すべて西陣織の古い帯。25本もの帯を裁って縫い合せていました。西陣織の帯を裁つことなど、昔は考えらません。けれど世代が変わり、着る人がいなくなって、簞笥のこやしになっていた着物が、こだわりもなく処分される世の中です。だからこそ、それを惜しむ洋ちゃんのような職人の手が、この新しい工芸をうんだのでしょう。
わたしはこれを見せられ、おそまきながら気づかされたのです。
上杉謙信の縫合胴服の存在を、学生時代から衣裳の研究をしていた花森安治が、知らなかったわけがありません。 古今東西の「衣粧美学」に通暁し、大政翼賛会時代には安並半太郎の筆名で『きもの読本』を書きました。絣の美しさに魅せられ、みずからデザインした絣の洋服をきて歩きました。花森安治には、戦国武将の権勢にたちむかう庶民の心意気と誇りが、高らかにあったとおもえます。
花森安治は1970年、暮しの手帖Ⅱ世紀第8号に署名エッセイ「見よぼくら一戔五厘の旗」をのせ、つぎのように結んでいました。
1976 一戔五厘の旗 表紙全体 |
ぼくらの旗は 借りてきた旗ではない
ぼくらの旗のいろは
赤ではない 黒ではない もちろん
白ではない
黄でも緑でも青でもない
ぼくらの旗は こじき旗だ
ぼろ布端布をつなぎ合せた 暮しの旗だ
ぼくらは 家ごとに その旗を物干し
台や屋根に立てる
見よ
世界ではじめての ぼくら庶民の旗だ
ぼくら こんどは後へひかない
一戔五厘の旗 函 |
旧友の洋ちゃんこと西陣の職人村山洋介は、こう言っています。
「謙信の胴服も、 花森さんの旗も、そこらにあった布きれを、ただ縫い合せて出来たというようなしろもんとは違うわなあ。いっぱい素材をあつめ、 よく吟味して、色合いと柄をえりすぐって、どれをどう縫い合せたら美しいか、第一級の職人のセンスがはたらいてる」
いま、あらためて花森安治の『一戔五厘の旗』の装釘をみると、わたしには花森が、「謙信が金銀欄緞子の胴服なら、こっちは木綿のこじき旗だ、負けるもんか」と胸を張っているように思えてなりません。と同時に、その装釘は、装本家恩地孝四郎への花森安治渾身の<回答>だったのではないでしょうか。恩地は昭和27年、次のように書き残しました。
——本は文明の旗だ,その旗は当然美しくあらねばならない.美しくない旗は,旗の効用を無意味若しくは薄弱にする.美しくない本は,その効用を減殺される.即ち本である以上美しくなければ意味がない.
(恩地孝四郎『本の美術』出版ニュース社1973年復刻版より、原文は正字正かな)
上杉謙信のぜいたくな胴服のことを知り、装本についての恩地孝四郎の定義を知り、そのうえで花森安治の『一戔五厘の旗』 を見ると、また新鮮な感動をよびさまします。あなたの目には、どう映りましたか。