壁面いっぱいに、花森がかいた「暮しの手帖」の表紙原画、表紙写真、新聞広告、車内中吊り広告、装釘本が展示され、フロアのケースには版下原稿やイラスト類がかざられ、会場に「これぞ花森安治」という世界が現出していました。なかでも小生にとって特に印象にのこったのは、フロアの大ケースに陳列された花森の高校生時代からの遺品の数々でした。その多くが初めて目にする品ばかりだったのです。
2006 花森安治と「暮しの手帖」展パンフレット |
なかで、ひときわ目を奪われたのものがありました。
花森安治の従軍時代から大政翼賛会時代にかけての手帖です。三冊ありました。しかもページをひらいて展示してあったのです。それを見て、大げさなようですけれど、頭をおもいきり叩かれたような衝撃をうけました。そこには鉛筆で書いた小さな文字が、びっしりと埋まっていました。あたかも謄写版の筆耕文字のように端正な文字で、だれが読んでもわかる文字で、その日のことが記されていました。
あらためて「戦争中の暮しの記録」の表紙をごらんください。
焼け焦げた手帖にそえられた深紅のバラの花に託した花森安治のこころを、おわかりいただけるでしょうか。ここで絵解きをするのは、それこそ野暮天、ひとこと多いなんてものじゃないのですが、戦後世代が人口の半分をこえたいま、あえて小生の解釈を披露させていただきます。
戦時下において、庶民の手帖には家族にあてた「遺書」の思いがこめられていたとおもいます。戦場で、あるいは銃後(国内)での日々を、わずか数行にしるし、生きたあかしを残そうとした、そう申しても過言ではないでしょう。戦時下の日本人は、つねに死を意識して生きていました。平和な時代の今とは、そこが違います。
表紙に象徴されている焼け焦げた手帖のもち主は、戦争でなくなったかもしれない、生きのびたかもしれない、しかし誰の手帖にも、そこに書いた人の、とりもどすことも、やりなおすこともできない人生があったことは、たしかです。花森安治は、戦争という時代を生きなければならなかったすべての人びとの人生を、焼け焦げた手帖にみたて、いとおしみ、かなしみ、その思いを深紅のバラにこめて、哀悼したのではなかったでしょうか。小生は、そのようにおもっています。
1970 暮しの手帖 第Ⅱ世紀7号ウラ表紙 |
敗戦後も花森安治は、従軍時代から大政翼賛会時代の手帖を、たいせつに持っていました。みずからの過ぎた日々を書きとめた手帖に向きあい続け、それを現在から未来へのしごとの糧とするには、なによりつよい精神力と、ゆるぎない思想がなくては、とてもできぬことだと小生はおもっています。