2011年9月18日日曜日

【森の休日】第9回 連続と非連続 ③ 

鐵村大二の生活社刊行の「婦人の生活シリーズ」は、第三冊めから発行人を鐵村、編輯人を今田謹吾とし、立場を分けて発行されました。しかしそれは読者には気づきにくい変化です。だれの目にもはっきり変わったのは雑誌の大きさ、B5判からA5判に小さくなりました。


1942


書 名 すまひといふく
装 釘 佐野繁次郎(1900−1987)
編輯人 今田謹吾(1897−1972)
発行人 鐵村大二
発行日 昭和17年1月15日(初版)
発 行 株式会社生活社
発行所 東京市神田区須田町2−17
印刷人 古川一郎
印 刷 共同印刷株式会社
印刷所 東京市小石川区久堅町108
製 本 金子製本株式会社
判 型 A5判 上製カバー 本文グラビア共234ページ
定 価 1円30銭


目次 前半

目次 後半

奥付


変化の背景には、印刷用紙の統制があったとおもいます。戦時中、統制されたのは言論や表現だけではなかったのでした。情報局の指導監督のもと「日本出版会」が各社へ用紙をわりあてました。用紙の購入も出版社の自由にならなかったのです。判型の縮小は、かならずしも需給関係を反映したものではなかったようですが、日本は対米開戦から一年にして、はやくも物資不足と窮乏のながい道を歩みはじめたことが、このような冊子の判型ひとつにもうかがえます。


1942


書 名 くらしの工夫
装 釘 佐野繁次郎(1900−1987)
編輯人 今田謹吾(1897−1972)
発行人 鐵村大二
発行日 昭和17年1月15日(初版)
発 行 株式会社生活社
発行所 東京市神田区須田町2−17
印刷人 古川一郎
印 刷 共同印刷株式会社
印刷所 東京市小石川区久堅町108
製 本 金子製本株式会社
判 型 A5判 上製カバー 本文グラビア共234ページ
定 価 1円30銭


目次 前半

目次 後半

奥付


二冊の目次をごらんにいれたのは、見れば見るほど、いろいろなことに気づくからです。目次が「もくろく」に、デザインが「でざいん」に変わっています。しかしいちばん目につくのは、判型が変わっても、レイアウトのスタイルに変わりがないこと。

ただし内容は、だいぶ変わってきました。『くらしの工夫』を書名にしたように、工夫、モノの再利用、リフォーム、手作りの記事が、あきらかに多くなってきています。それはなによりも実用を重視した編集方針といえるでしょう。しかも(女性名で)書かれている個々の記事をよめば、それが戦後のモノのないころの『美しい暮しの手帖』の記事とあまりに似ていて、あぜんとするほどです。

しかし、生活社の「婦人の生活シリーズ」は、全10冊の刊行予定だったのが、この4冊でとだえます。どこかのなにかに告知があったのかもしれませんが、本誌には休刊とも終刊ともことわりがないままでした。奥付に初版五万部とあり、販売不振とみなすには疑問がのこります。いったい何が理由だったのでしょうか。その謎は、それから二年の後、築地書店から『切の工夫』が刊行されて、いっそう深まります。


1944


書 名 切の工夫
装 釘 佐野繁次郎(1900−1987)
編輯人 小山勝太郎(生没年不明)
発行人 大澤慶壽
発行日 昭和19年3月10日
発 行 築地書店
発行所 東京都日本橋区堀留町1−1
印刷人 大橋芳雄
印 刷 共同印刷株式会社
印刷所 東京都小石川区久堅町108
製 本 金子製本株式会社
判 型 B6判 上製カバー 本文グラビア共262ページ
定 価 2円(含特別行為税相当額10銭)



目次 前半

目次 後半

奥付

『切の工夫』(註、切とは布地のこと)という書名はともかく、判型がB6判と小さく、そのうえ版元が築地書店ですから、これが生活社「婦人の生活シリーズ」の続刊とは、ちょっと想像しにくいでしょう。じっさい手にとって、レイアウトや目次をみ、なかを読んでみないと、奥付の記載だけでは判別しにくいのです。とりわけ東京婦人研究会の小山勝太郎なる人物が、とつじょ編者としてあらわれてくるのもウサンで、関心をもって見ないと、まったく新しい本におもえます。

小山の詮索はおくとして、まずは目次です。『くらしの工夫』のときと同じように、平かなで「もくろく」にしています。でも、それは瑣末なこと。装釘を佐野繁次郎、横光利一をはじめとする執筆陣、さらに読物の主軸をなす安並半太郎「きもの読本」まで、まったく「婦人の生活シリーズ」とおなじ線上にある企画なのです。

二年前、いったん途絶えたかに見えた企画が、ここによみがえっています。いや、同一性をたもって存続しています。変わったのは判型だけで、かつての生活社版を知るひとには、これが続刊であることはすぐわかります。実用性を重んじる安並半太郎、すなわち花森安治の主張は、なんら変わっていません。かれらはなぜ、こんな手のこんだことをしなければならなかったのでしょうか。

戦時中、大政翼賛会で「国策宣伝」にたずさわった花森のことを、国民を戦争にかりたて、窮乏生活を強いた張本人であるかのように非難する声が、昔も今もあります。しかし、その非難は、すこし短絡しすぎているようにおもえます。安並半太郎という、もう一人の花森の存在が、そこから見えてきません。

つまり国策ですから、戦争にかりたて窮乏生活を強いるだけならば、宣伝部として「号令」をかければ済むことなのです。にもかかわらず花森安治は、用紙の確保がむつかしい民間の出版社で、しかも匿名をつかい、モノの再利用やくふうを具体的な記事にして、懇切ていねいに紹介しつづけました。それも一社ならず二社にわたってなのです。

かりに鐵村大二が大政翼賛会の花森と組み、親方日の丸で「婦人の生活シリーズ」を出版した、とみなすのであれば、用紙の調達に苦労することもなく、鐵村の生活社は四冊で頓挫することもなかった筈です。その事情は一冊でおわった築地書店とておなじ。

出版は「志」といわれます、しかし志だけで成り立つ事業ではないことも、またたしかではないでしょうか。そこに現在からは想像を絶するほどの困難が、戦時中の日本にあったとおもいます。言論弾圧の悲劇は、それをものがたっています。花森安治の戦いは、おのれの信条に殉ずることではなく、人々の暮しをふみにじるものに対して、勝つことだった筈です。

その戦いは、匿名であれ実名であれ、戦時中であれ戦後であれ、生涯を通じています。椹木野衣さんが指摘したように、花森安治の「思想」は一貫している、ということです。

【お知らせ】この項、次回もつづきます。次回は、大政翼賛会宣伝部の花森安治としての発言と、戦後の『暮しの手帖』の花森安治としての発言内容の同一性をさぐります。