2011年8月14日日曜日

【森の休日】第7回 連続と非連続 ①

お盆——。人と人との縁はふしぎです。『彷書月刊』編集長であった故田村治芳さんと小生の出合いも、ほんの一瞬でしたが、わすれえぬ縁となっています。それは生活社の鐵村大二がまねきよせ、花森安治がむすんでくれたとしか思えないのです。


彷書月刊 2002/3  2010/10


もう何年かまえのこと。生活社と鐵村大二のことをしらべるうち、『彷書月刊』の特集記事になっていることがわかり、さっそくとりよせました。2002年3月号<特集・とある出版社の足あと>がそれで、「鐵村大二と生活社」について、河内紀さんが書いていました。

読後、小生は田村さんに、生活社がだした『婦人の生活』に安並半太郎の名まえで「きもの讀本」を書いているのは花森安治であり、この本全体の編集スタイルやレイアウトなどから推察できるのは、戦後これを花森がマネたのではなく、当時、花森じしんがこの本づくりに主導的にかかわっており、そしてこのとき花森は、『婦人画報』の東京社で出版局長の経歴をもつ鐵村から、女性を読者対象とする雑誌作りのノウハウを学んだのではないか、そのように想像しているとメールで伝えました。

田村さんから、なるほどそう考えたほうが自然な流れにおもえる、と返事がありました。たったそれだけのやりとりが、七年後の休刊号で、ふたたび河上さんに『尋ね人の時間・特別編』で「生活社と鉄村さん」を書かせたのではないか。ひっきょうそれは、戦後まもなく早世した鐵村と、入れかわるように登場した花森の、戦時中のふたりの間に存在したであろう濃密な時間への関心からではなかったか。そうおもえます。


1940


書 名 婦人の生活 第一冊
装 釘 佐野繁次郎(1900−1987)
編輯人 鐵村大二(1907−1946)
発行人 鐵村大二
発行日 昭和15年12月5日
発 行 株式会社生活社
発行所 東京都神田区鍛冶町3−6鍋町ビル
印刷人 大橋松雄
印刷所 共同印刷株式会社
判 型 B5判 並製カバー 本文グラビア共200ページ
定 価 1円30銭




装釘者として、佐野繁次郎の名が記されていることが、長いあいだの混乱の元のようです。扉や見出しにも佐野の書き文字がつかわれており、いかにも佐野がレイアウト(あるいはアートディレクト)したように見えるからでしょう。しかし全体を通して見ると、林哲夫さんも指摘されているように、文字組ひとつ見ても花森安治のデザインセンスであると言えそうです。あいまいな言い方にならざるのをえないのは、花森安治の名まえが、どこにも記してないから——。


目次のうち安並半太郎「きもの読本」のページ


安並半太郎こと花森が書いたページが、全体のほぼ四分の一をしめることも驚きながら、「きもの読本」と題したエッセイを、業界で無名の者が堂々と書いていることに、もっと驚かされたのではないでしょうか。大げさにいえば、イザヤ・ペンダサンくらいの衝撃を、業界人に与えたようにおもえます。わからないのは、なぜ安並半太郎の筆名をつかったか、その理由です。この第一冊をつくったとき、花森安治は戦地でわずらった病気がなおって和歌山から東京へ戻ったころで、大政翼賛会にはいるのは、翌年の春といわれています。


奥付


この本は、全十冊シリーズを企画していました。だから第一冊なのですが、奇妙なことに第二冊の編輯兼発行人は今田謹吾にかわり、第三と四は、編輯人を今田、発行人を鐵村としています。しかし、名まえがどうであれ、企画の趣旨、根幹をしめす文章は、花森安治が書いていたとしかおもえません。憶測といわれればそうですが、たとえば本書の「序」や「あと書」から、一節ずつひいてみましょう(原文正字正かな)。

——ほんとに必要なもの——「必要は真実の美だ」といっていいと思う。又「必要が一番の自然だ」といってもいいと思う。では又(C)。

——実用記事、それから真実な経験から生れた、尊い皆さまの原稿は、おそらく、読み手になる者の生活に、そのまま生きて這入って行くにきまっています。

いかがですか。
「必要なものは美しい」は、花森安治の美意識の基本。つぎの実用記事以下の文を、やさしく詩的に言いかえれば、いまなお『暮しの手帖』の表紙ウラ面をかざることば、そのものではないでしょうか。

*「美しいものを」参照、初出『暮しの手帖』95号(1968)、花森安治『一戔五厘の旗』(1971)所収。
*『暮しの手帖』表紙ウラ面のことば。

これは あなたの手帖です
いろいろのことが ここには書きつけてある
この中の どれか一つ二つは
すぐ今日 あなたの暮しに役立ち
せめて どれか もう一つ二つは
すぐには役に立たないように見えても
やがて こころの底ふかく沈んで
いつか あなたの暮し方を変えてしまう
そんなふうな
これは あなたの暮しの手帖です


もっとうがったことをいえば、「では又(C)」という締めくくり方です。古い『暮しの手帖』の「編集者の手帖」も、昭和24年第5号から「では又(S)」で必ず終っています。Sが大橋鎭子さんのイニシャルをあらわしていたことは古い読者ならごぞんじのとおりですが、では本書のCは、いったい誰をさしているのでしょう。鐵村も佐野もCではありません。花森安治の「は」と、小生は見なしています。ヒントはベートーヴェンの交響曲第5番。中野重治『日本文学の諸問題』の表紙もごらんください。花森には、みずからを愉しむところがありました。


1946

*Beethoven  Symphony No.5 in C minor ベートーヴェン 交響曲第5番ハ短調
*表紙の右下部に注目すれば、CはH(花森安治のサイン)「花森安治もまた細部に宿る」といえば、冗談がすぎると叱られるかしら。

【おしらせ】この項は次回もつづけます。

ブログを一週間やすみます。小さな菜園ながら秋冬野菜の種苗をまくために、これから一ヶ月かけて畑作り。老骨にムチ打って、と自慢したいところなれど、当地もまた年寄りはみな達者で、小生なんぞはハナタレ小僧、弱音を吐くわけにはまいりません。