2013年8月15日木曜日

終戦の日にひびけ『灯をともす言葉』


2013


書 名 灯をともす言葉
著 者 花森安治
監 修 土井藍生
構 成 鈴木正幸
組 版 鈴木成一デザイン室
発行日 平成25年7月20日
発行者 小野寺優
印 刷 株式会社暁印刷
製 本 加藤製本株式会社
発 行 株式会社河出書房新社
発行所 東京都渋谷区千駄ヶ谷2-32-2
判 型 四六判変型 200ページ ソフトカバー
定 価 本体1300円税別

監修者の土井藍生さんから新刊をちょうだいした。それがありがたく、なによりうれしい。
藍生さんは花森安治のご息女。添えられたお便りに、表紙につかわれている市松模様は、花森がこのんだ模様の一つで、書籍では河盛好蔵『あぷれ二十四考』につかい、松江の一畑百貨店の依頼によりデザインした包装紙にもつかわれたと書かれていた。小生の記憶にまちがいがなければ、中華レストラン新橋王府の入口内壁も大きな市松模様で、いかにも中華チュウカしていないところが新鮮であった。王府のロゴをはじめとする種々の意匠は、花森安治のデザインであった。その王府も、料理長であった穏和な戰美樸さんも、いまはないけれど——。


本体表紙


この夏、本書が刊行された意義は大きい。きょう68回めの終戦の日をむかえ、本書の中から、花森安治のつぎの言葉をもって、憲法第九条の改定に反対したい。


《人間の歴史はじまって以来、
世界中どこの国もやったことのないこと、
やれなかったことを、
いま、日本はやってのけている。
日本国憲法第九条。
日本国民は……
武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。
なんという、すがすがしさだろう。
ぼくは、じぶんの国が、
こんなすばらしい憲法をもっていることを、
誇りにしている。
あんなものは、押しつけられたものだ、
画(え)にかいた餅だ、単なる理想だ、という人がいる。
だれが草案を作ったって、
よければ、それでいいではないか。
理想なら、全力をあげて、
これを形にしようではないか。
全世界に向って、武器を捨てよう、と
いうことができるのは、日本だけである。
日本は、それをいう権利がある。
日本には、それをいわなければならぬ義務がある。》

ー花森安治「武器をすてよう」ー初出『暮しの手帖』97号(1968)、『一戔五厘の旗の』所収


カバー全体(オビ共)

【ひとこと】
本書収載の花森語録には、拙著『花森安治の編集室』からも採録されている。花森の言葉は、どの一語一句にもその才智があふれており、多くの言葉の中から選ぶのは苦労したとおもわれる。それだけに拙著からの採録はおもいがけず、光栄でした。感謝します。

言わずもがなながら、諸賢の興味と関心をあおるために申すならば、本書には仕掛けがある。大まじめに読んでいると、ところどころで噴きだしてしまうこと請け合い。電車内などでお読みになる御仁は、くれぐれも御注意めされ。


【もうひとこと】
「終戦の日」や「終戦記念日」という言い方に異論を唱えるひとが、昔も今もいる。潔く「敗戦」を認めるべきだ、というのが昔の異論であった。これについて花森のことばが残っている。

《日本人は八月十五日を敗戦といわないで終戦という、とよく問題にされますが、ぼくも敗戦という感じを持たなかった。終った、すんだ、言葉にすれば終戦ですね。しかし漢字で表すと、「了」、完了の「了」という字を書きたい気持ちでしたね。》「僕らにとって8月15日とは何であったか」ー初出毎日新聞社『1億人の昭和史4空襲・敗戦・引揚』1975

無益な戦争を体験し、その辛酸をなめつくすことを余儀なくされた日本人にとって、戦争はこれっきりで終りにしたい、という強い思いが「終戦の日」もしくは「終戦記念日」という表現をとらせたのではないか。

懸念すべきは現今の異論である。「敗戦記念日」をいう人のなかに、その対極として「戦勝記念日(海軍の日・陸軍の日)」を復活させようという意図が見えかくれしている。戦争体験者が少なくなるにつれ、若い人にこのような浅薄な思考が増えるのは、とても残念におもう。

2013年5月25日土曜日

世田谷美術館 大橋鎭子さん追悼展

世田谷美術館では、大橋鎭子さんを追悼し、『暮しの手帖』表紙絵の原画展を下記のとおり開催しています。従来の企画展のような展示ではありませんが、「3月23日に93歳で逝去された暮しの手帖社社主・大橋鎭子さんを偲んで、ささやかながら追悼の意を込め、当館所蔵の花森安治『暮しの手帖』表紙絵原画(8点)を展示」することに急遽きまったそうです。

特設展示コーナーは観覧無料。花森の原画には、見るたびに新たな発見の喜びがあるでしょう。じっくりご覧ください。絵はとても細密です。読書用メガネをお忘れなきよう。

展示期間:2013年5月21日(火)~6月23日(日)
展示場所:世田谷美術館2階 ライブラリー前
出品作品:花森安治『暮しの手帖』表紙絵原画
世田谷美術館についての詳細は、http://www.setagayaartmuseum.or.jp/


No.1
No.2
No.3
No.4
No.5
No.6
No.7
No.8

上掲は、表紙となって刊行されたもの。 展示している原画は下のとおりです(世田谷美術館作成)。
№ 掲載号数  発行年月   材質、技法
1.1世紀 1号  1948年 9月   紙、水彩
2.1世紀10号 1950年12月  紙、水彩、色鉛筆、鉛筆
3.1世紀19号 1953年 3月   紙、オイルパステル、色鉛筆、鉛筆、スクラッチ
4.1世紀26号 1954年12月  紙、オイルパステル、グワッシュ、スクラッチ
5.1世紀37号 1956年12月  紙、色鉛筆、水彩
6.1世紀40号 1957年 7月   紙、カンヴァスボード、鉛筆、グワッシュ
7.2世紀 1号  1969年 7月  合板、グワッシュ
8.2世紀53号 1978年 4月  カンヴァス、油彩

*美術館の案内とじっさいの展示作品には違いがあるかもしれません。ご確認ください。



暮しの手帖1世紀100号記念に創刊メンバー花束贈呈。
写真右から二人めが鎭子さん(写真の複製転載を禁ず)


花森安治の逝去後、田宮虎彦が鎭子さんにあてた手紙がありました。いちばんの讃辞だとおもえます。以下にひいて、あらためて鎭子さんをしのびます。

《・・・花森君があれだけのことが出来たのは、もちろん花森君が立派だったからには違いありませんが、やはりあなたの協力があったからこそと思います。こんなことを私が言うのは筋違いであり、おかしなことかも知れませんが、花森君が力いっぱい生きることが出来、あのようにすばらしい業績を残したことについての、あなたのお力に対し、あつく御礼申しあげます。》 酒井寛『花森安治の仕事』所収


「暮しの手帖」とわたし 大橋鎭子  暮しの手帖社 2010

鎭子さんは東京生れですが、幼いころ北海道に育っています。おなじ北海道出身で、花森安治の装釘で縁が深かったのが作家の伊藤整でした。伊藤がつくった詩「もう一度」が、なぜかわたしには鎭子さんの著書の表紙絵から聞こえてきます。鎭子さんもまた戦争に青春をうばわれた人でした。

伊藤整 もう一度

みんながあの日の服装で
あの日の顔つきで 落葉松の緑が萌えてゐる道を
笑ひながらもう一度やつて來ないかな。
そのときこそは間違ひなく
本當に生き直したい
あの過ちをすべて とりかへしたい。

2013年3月30日土曜日

しょうけい館 花森安治展をみる

一階フロアの左手おくに、企画展コーナーがあった。美術館にくらべ規模こそ小さいが、花森安治の傷病兵としての経歴にスポットをあて、そこから戦後の『暮しの手帖』のしごとを逆投影している。花森の知られざる一面がきわだつ企画になっており、展示構成もみごとだ。


パンフレット(3ページ)
展示資料一覧(1ページ)


入口受付でパンフレットと展示資料一覧をもらう。展示品で特記すべきは、世田谷美術館では公開されなかった花森の戦時中の写真と手帳、妻と愛娘にあてた書簡、遺品の数々であろう。夫として、父親として、ひとりの男が生きた証がいまなお<在る>ことに、厳粛を感じた。

それだけではない。かつて暮しの手帖研究室の屋上にひるがえっていた<一戔五厘の旗>も展示されていた。風雨にさらされ、くたびれやぶれ、いろあせた木綿の旗に、わたしは意外にも花森安治の人生を見るおもいがした。無言のボロ旗は、花森安治のやさしさと深い悲しみを、重く低く訴えているようであった。

展示資料に「花森安治年表」がそえられている。さすが戦傷病者資料館だけに、戦時中の花森について、これまでになく詳しく調べてある。蒙を啓かれた。わたしは杉山平一の話をうのみにし、花森の内地療養先を和歌山の陸軍病院とばかり思いこんでいたが、そうではなかった。大阪陸軍病院深山分院が正しいようだ。学芸員の誠実をありがたくおもいました。感謝します。

5月12日まで。月曜休館。入館無料。ぜひ、ごらんください。わたしも再訪したい。

2013年3月6日水曜日

しょうけい館 花森安治展案内リーフ

3月20日、しょうけい館春の企画展が開催。
「戦中・戦後の戦病者〜二度の除隊を経て花森安治の歩み〜」


案内リーフおもて 2013

案内リーフうら


くわしくはしょうけい館のホームページをごらんください。
http://www.shokeikan.go.jp/

関連イベントに、ご息女の土井藍生さんが「父花森安治の思い出話」を、また「学芸員による展示解説」も予定されています。

学校は春やすみ。ぜひ、お子さんづれで、ご家族でお出かけください。戦争の悪と悲惨さを次世代につたえてください。入館無料。

【厚生労働省の報道関係者むけ資料】
http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000002wltk.html

【ブログ再掲】花森安治の戦後のしごとを代表するのが『戦争中の暮しの記録』です。二年まえの拙ブログですが、こちらもご覧いただけますとしあわせです。
http://sotei-sekai.blogspot.jp/2011/03/blog-post_27.html 

2013年1月31日木曜日

しょうけい館

しょうけい館という施設をごぞんじですか。
東京九段下にあり、ホームページに、つぎのように紹介しています。

《しょうけい館は、戦傷病者とその家族等の戦中・戦後に体験したさまざまな労苦についての証言・歴史的資料・書籍・情報を収集、保存、展示し、後世代の人々にその労苦を知る機会を提供する国立の施設です》
http://www.shokeikan.go.jp/

告知はまだですが、ここで花森安治展を3月下旬から開催することになりました。その準備がはじまっています。近いうちに案内リーフもできるようで、いまからたのしみです。

左・『暮しの手帖「花森安治」保存版』 右・『考える人2011年夏号』

花森安治の戦争体験といえば、どうしても大政翼賛会での宣伝活動に従事したことに関心が集まりがちですが、その前は、花森じしんも満洲の前線に兵隊としておくられています。劣悪な環境で胸をわずらい帰還した傷病兵でした。

花森が和歌山の陸軍病院で療養していたころ、そこで見聞きし悟ったことなのでしょうか、戦傷によってからだが不自由になった人がふびんに思えても、いっときの同情心から手助けしてはいけない、その人が自立するのをさまたげることになる、と編集部でのお茶の時間に話していたのを記憶しています。

翼賛会時代、あるいは戦後の花森について、つねに距離をおくようなよそよそしさを感じたという証言があります。花森独特の気づかいが相手につたわったかどうか、それはわかりませんが、誰にたいしても気をつかいすぎるところがありました。その気づかいが、大政翼賛会時代について沈黙させた最大の理由であろう、とわたしは考えています。けっして臆病からでも保身のためでもない。

誤解をまねきやすい言葉があります。翼賛会での宣伝業務にたずさわったことをもって「花森は、一銭五厘のハガキを出す側にいたのに、被害者のような文章をかくのはおかしい」というものです。国家総動員法の施行を知らない人がきけば、翼賛会にいた人間は、召集が免除されていたかのように錯覚させます。

免除はありえません。同僚だった中山富久をはじめ、平凡出版(現マガジンハウス)をおこした岩堀喜之助、清水達夫らも翼賛会にいたとき召集され、ひどいめに合っています。傷病兵として現役解除されたはずの花森じしんも再召集されかかっています。だから家を焼かれる「空襲よりも召集がこたえた」と書きました。戦争末期、戦場から生きてかえれるとは誰もおもっていなかったからです。

戦後六〇年がたって、ようやく戦場体験者が重い口をひらくようになりました。「おめおめ生き恥をさらすよりも、仲間といっしょに死んだほうがどれほどらくか」——戦傷病者は、からだとこころの両方に、消し去りがたい傷を負った人々ではなかったでしょうか。その視点から、多くのひとに、花森安治の戦後のしごとを見ていただけるといいな、とわたしは願っています。ふたたび戦争の犠牲者をだしてはいけません。

戦争でうけた痛みは、体験した者にしかわからぬとしても、その後に生まれてきた者として、せめてその痛みを想像する力を失わないようにしたいとおもっています。