東京九段下にあり、ホームページに、つぎのように紹介しています。
《しょうけい館は、戦傷病者とその家族等の戦中・戦後に体験したさまざまな労苦についての証言・歴史的資料・書籍・情報を収集、保存、展示し、後世代の人々にその労苦を知る機会を提供する国立の施設です》
http://www.shokeikan.go.jp/
告知はまだですが、ここで花森安治展を3月下旬から開催することになりました。その準備がはじまっています。近いうちに案内リーフもできるようで、いまからたのしみです。
左・『暮しの手帖「花森安治」保存版』 右・『考える人2011年夏号』 |
花森安治の戦争体験といえば、どうしても大政翼賛会での宣伝活動に従事したことに関心が集まりがちですが、その前は、花森じしんも満洲の前線に兵隊としておくられています。劣悪な環境で胸をわずらい帰還した傷病兵でした。
花森が和歌山の陸軍病院で療養していたころ、そこで見聞きし悟ったことなのでしょうか、戦傷によってからだが不自由になった人がふびんに思えても、いっときの同情心から手助けしてはいけない、その人が自立するのをさまたげることになる、と編集部でのお茶の時間に話していたのを記憶しています。
翼賛会時代、あるいは戦後の花森について、つねに距離をおくようなよそよそしさを感じたという証言があります。花森独特の気づかいが相手につたわったかどうか、それはわかりませんが、誰にたいしても気をつかいすぎるところがありました。その気づかいが、大政翼賛会時代について沈黙させた最大の理由であろう、とわたしは考えています。けっして臆病からでも保身のためでもない。
誤解をまねきやすい言葉があります。翼賛会での宣伝業務にたずさわったことをもって「花森は、一銭五厘のハガキを出す側にいたのに、被害者のような文章をかくのはおかしい」というものです。国家総動員法の施行を知らない人がきけば、翼賛会にいた人間は、召集が免除されていたかのように錯覚させます。
免除はありえません。同僚だった中山富久をはじめ、平凡出版(現マガジンハウス)をおこした岩堀喜之助、清水達夫らも翼賛会にいたとき召集され、ひどいめに合っています。傷病兵として現役解除されたはずの花森じしんも再召集されかかっています。だから家を焼かれる「空襲よりも召集がこたえた」と書きました。戦争末期、戦場から生きてかえれるとは誰もおもっていなかったからです。
戦後六〇年がたって、ようやく戦場体験者が重い口をひらくようになりました。「おめおめ生き恥をさらすよりも、仲間といっしょに死んだほうがどれほどらくか」——戦傷病者は、からだとこころの両方に、消し去りがたい傷を負った人々ではなかったでしょうか。その視点から、多くのひとに、花森安治の戦後のしごとを見ていただけるといいな、とわたしは願っています。ふたたび戦争の犠牲者をだしてはいけません。
戦争でうけた痛みは、体験した者にしかわからぬとしても、その後に生まれてきた者として、せめてその痛みを想像する力を失わないようにしたいとおもっています。