島根県立美術館でひらかれた《くらしとデザイン「暮しの手帖」花森安治の世界》は、美術館としては異色の展覧会であった。表紙やイラストの原画はもとより、装釘本やポスターばかりでなく、『暮しの手帖』と花森安治ゆかりの品々までもが一堂に供された。
たぐいまれな天才編集者の全貌を知ってもらおうという意図は、天野祐吉さん、高橋一清さん(松江観光協会・元文藝春秋編集者)、矢野進さん(世田谷美術館主任学芸員)らの講演会企画にもうかがわれた。それらは映像と共に記録され、後の世に伝えられるだろう。
開催初日、展示室でギャラリートークがあった。話者は、花森安治のもとで働いた元編集部員の河津一哉(82)。その下書きのメモをちょうだいしたので、ここに紹介したい。その前に『暮しの手帖』2世紀第7号(1970)にのせられた小さなコラムを読んでほしい。筆名こそちがうが書いたのは河津であり、手直ししたのが編集長花森であった。
『暮しの手帖』2世紀第7号(1970) 雑記帳より |
●河津一哉トークのためのメモ
私が花森編集長ひきいる暮しの手帖編集部の一員となったのは、昭和32(1957)年のことでした。花森さんが亡くなるのは52(1977)年です。50年代の末から70年代の末まで、ざっと20年間、皆さんがこれから会場でごらん頂くような天才のもとで働くという幸運にめぐまれました。
昭和30(1955)年前後から、いわゆる家庭電化時代が始まって、暮しの手帖は商品テストの雑誌として有名になってゆきます。
初めのころ花森さんは「商品批評」という言い方をしていました。映画や演劇や書物や絵画、音楽に批評があるのに、我々の暮しを支える「もの」についての批評がないのはおかしい、商品の欠点を指摘すると「営業妨害」という反撥を受けるのも奇妙な話だというのです。
事実、その営業妨害で訴えられたことがありました。配線器具をテストしたときで、メーカーの言い分は、我々はJIS(日本工業規格)の規定通りの耐久テストをして、それに合格したものを売っているのだ。それにケチをつけるとは何事だというわけでした。
それに対する花森さんの批評の方法、つまりテストの方法は、徹底的にじっさい使うときの条件にして、じっさいに動かし使ってみる、そしてその結果起こった事実だけをふまえてモノを言う、そういうやり方でした。
入りたてでしたからハッキリおぼえています。板にとりつけたコンセントにプラグを手に持って、来る日も来る日も差し込んでは抜き、差し込んでは抜きして、10回ごとに回数を紙に書きこむ、を繰り返します。自動装置にしてガチャンガチャンと抜き差しさせるわけではありません。当時の中国の人海戦術のようなもので、なんという労力のムダだろうと思ったものです。しかし、じっさいにやってみなければわからないことがやはり起こるのでした。そして、じっさいに起こった結果ですから、どんな抗議にも訴えにも、ひるまないですみました。結局そのメーカーは訴えを取り下げたのです。私が花森さんの考え方に目をみはった最初でした。
じつは我々もテストをするとき、JISのテスト方法もいちおうはやってみました。しかし〈使っている状態で〉テストするという原則が第一ですから、JISは参考にするだけで、必ず自分たちの暮しの場で使われる状態に近いテスト方法を工夫しています。
たとえば掃除機の性能を表わすのに、JISでは「真空度」を測って「吸込み仕事率」というワットで示す表わし方をします。しかしこれは、いうならモーターそのものの力です。じっさいにゴミを吸込む具合というものは吸い口をつけてみないとわかりません。やってみると、吸い口の形や構造で吸込み具合のよしあしが決まることがわかります。モーターの力は少々弱くても、吸い口の構造がよくできていると、なかなか吸込み性能のよい掃除機だということになります。
換気扇の最初のテストのとき、こんなことにおどろきました。風量を測ったり、スイッチの耐久力をしらべたり、これが型通りすんで、換気扇の下でいろいろ煮炊きをしてみたのです。家で換気扇のよごれ取りをなさった方ならおわかりでしょう、そのよごれたるや並大抵のものではありません。最初のテストでは、そのよごれの取りにくさ、掃除のしにくさ、これはひどいものでした。羽の先から油が天井や壁にとびちる。キカイにこびりついた油を拭き取ろうにも分解しにくい。これを作ったひとはじっさいのよごれがどのくらいすごいか、使ってみたことがないのだろうか、と思ったくらいです。
こんなことは、じっさいに油でいためものなどをやってみればすぐわかることです。テストはあくまでもシロウトの、生活する者の立場から、じっさいに使われるとおりにやったのでした。最初はバカバカしく思ったものです。すると、かならず、まさかというような欠点が浮かびあがるのでした。
こんなことがありました。ある大メーカーの大きな研究所に取材にいったときのこと、そこの所長さんが、「うちには博士が何百人もおります」と言いました。花森さんはこれに対して「うちにはひとりも博士はおりません」と答えました。生活する者の立場に立ち、自分の目や手でためしてみれば、理学博士、工学博士の作った物でも批判できるという経験があったからこそ言えるコトバでした。
暮しの手帖の商品テストは、消費者協会や国民生活センターがやろうとしている、いわゆる消費者擁護のためのテストではありません。花森さんは創刊100号をむかえたとき、《商品テスト入門》という記事を書き、その冒頭で「商品テストは消費者のためのものではない。生産者のためのものだ」と言い切りました。
商品を見る目をきたえろ、かしこい消費者になれ、などという上から目線に花森さんは反対でした。こざかしい消費者になんかなることはない。第一、やりくりに追われる毎日、そんなヒマなどない筈だ。「店にならんでいるものが、ちゃんとした品質と性能を持つものばかりなら、あとは自分のふところや趣味と相談してどれを買うか決めればよい。そんなふうに、作る人が考えて努力してくれるような世の中になるために、〈商品テスト〉はあるのだ」、というのです。
「〈商品テスト〉はハッキリ商品名をあげる。もしそのテストが信頼されていたら、よいといわれた商品は売れるし、おすすめできないといわれた商品は、売れなくなる。だから、〈商品テスト〉は、メーカーに、いいものだけを作ってもらうための最も有効な方法なのだ」、というわけです。
花森さんは、テストする商品の数はなるべくしぼろうとしました。レジャー用品はとりあげません。そんなどっちでもいい商品まで手が回らないからです。商品テストを売り物にしてはならぬ、とよく言いました。雑誌が売れるためには、あまり必要でなくてもネダンの高い商品を取上げなければならなくなるからです。
暮しの手帖の商品についての記事は、全体の2割にすぎません。商品テストの品目をえらぶのに、ほんとうに必要なものだけをえらぶようにつとめれば、テストの報告の質も高まります。
とにかく商品の数は多いし、調べる能力もかぎられていますから、暮しの手帖が行うテストは年間でせいぜい約40品目、これに対し、アメリカのコンシューマーズ・ユニオンは70品目で、自動車のテストがセールスポイントになっています。200万部ちかい発行部数があるか何とかできますが、日本の程度の部数では、車のような高額のものはムリです。
商品の数は圧倒的に多いのですから、国民生活センターやコンシューマーズ・ユニオンがいくら〈消費者のための商品テスト〉といっても、対象品目が少なすぎるという不満がどうしても出てきます。
〈商品テストは生産者のため〉とした花森さんのねらいは何だったのでしょうか。花森さんの別の言い方を思い出します。「大量広告時代というが、知りたいことは知らされず、知りたくもないことばかり知らされている。なにが情報過剰時代なものか、むしろ過少時代だ」と。つまり、花森さんは、売り手の立場からつくられた商品情報を、使い手の立場からつくり直し、ノシをつけて売り手に送り返したのです。
このシロウトの批判を、でも家庭電器産業界は〈かしこく〉受け入れていきました。消費者のこまごまとした注文に密着した工夫と開発を重ねてきました。物みな高くなるばかりの時代に家庭電器は全体に性能を高め、価格も相対して安くなってきたとおもいます。
私たちが、JISをテスト方法としては軽く視ている間に、メーカーは品質管理につとめ、いまではひところのような一見して粗雑さがわかる製品は見られなくなりました。
花森さんがはじめた商品テストは、こんなふうに直接消費者に向けたものではありませんでしたが、こうして、まわりまわって、まだ理想の程度からはほど遠いながら、消費者にとって商品の改良進歩をもたらしてきたと思います。
さて、このように花森さんの考え方は、頭で緻密な理論を組み立てていくというやり方ではなくて、まず自分で手を下して五感で感じとり、確かめたものを積み上げてゆくというやり方でした。
花森さんのこんな考え方を、河合隼雄さんは西洋流の〈実証主義〉と区別して〈手ざわりの思想〉と呼びました。
お読みになった方もいらっしゃると思いますが、『花森安治の編集室』という本を書いた唐澤平吉君は、最近、花森さんの考え方のもうひとつの呼び方を私に教えてくれました。〈親試実験〉というコトバです。「シンシ」とは、親しく試みると書きます。他人にたよらず自分で試し、実証しようとする姿勢。江戸中期これを唱えたのは京都の吉益東洞(1702~1773)という漢方医でした。西洋系の医学より先に近代的な実験医学の立場を主張したのです。あの華岡青洲は東洞の息子の弟子です。唐澤君は精神科医の中井久夫さんからそのことばを教わったそうです。
皆さまはこの会場いっぱいに並べられた一人の人物の多彩な才能をごらんになるでしょう。自分のもつ才能のありったけを駆使して花森さんはいったい何をめざしたのか? 我々ひとりひとりが〈守るにたる〉自分の暮しを築くための役に立つ雑誌を作ろうと努力する一人の天才の姿を、お感じ取りになるとおもいます。
ここで、私の個人的なおもいでをお話しすることをおゆるしください。
さきほど申しました中井久夫先生の、『日本に天才はいるか』という短いエッセイ(『家族の深淵』みすず書房1995年刊所収)のなかに、「天才のまわりには自分が天才でないと自覚している人が集まって、天才を育てることを生涯の喜びとする」イタリアの話が出てきます。読んだとき、私は花森さんを思い浮かべました。さらに、「天才は個人現象というより小集団現象です」というくだりを読んだとき、私は暮しの手帖の表紙の裏や目次のなかに小さい字で刷られている、その号をつくりあげるのに係わった編集はじめ製作、印刷、製版、製本のみんなの名前を思い浮かべました。
思い出はさらに、1970年の第8号の巻頭をかざった『見よぼくら一銭五厘の旗』のなかのあの有名な章句へ飛びました。〈民主主義の<民>は庶民の民だ〉〈ぼくらの暮しをなによりも第一にすることだ〉〈ぼくらの暮しと企業の利益とがぶつかったら企業を倒すということだ〉〈ぼくらの暮しと政府の考え方がぶつかったら政府を倒すということだ〉へ。あの有名なくだりです。
そして私のおもいでは、さらにその一号前の第7号、『雑記帳』(それは編集部員も投稿を求められているコラムの頁ですが)という頁にさかのぼります。私が出した150字のレコード紹介の小さな記事は、「フィフス・ディメンション」という名の5人コーラスのレコードでした。その歌は、なんとアメリカ合衆国の独立宣言をそっくりそのまま歌うのです。こいつはスゲエと感動して全歌詞を長々と書き写し提出したのでした。花森さんは目にとめて、私の長々しい丸写しをつぎのように削って採用してくれました。「……政府というものは、全ての人の生命、自由及び幸福の追求の権利を確保するために、治められる者の同意に基づいて設けられたのである。いかなる形の政府であっても、この目的を害するものとなる時は、それを変革し、あるいは廃止することは、国民の権利である……」
『一銭五厘の旗』のあのくだりを次の第8号で初めて見たときの私のひそかなほこらしい喜びが、いまでもよみがえります。天才は独立宣言をみごとに自分のことばにしていたのです。
(この後、会場に設置されたスクリーンに1966年におこなった火事のテストの8ミリ録画を映写し、その解説にうつります。下書きメモは、ここでおわっていました)
【あらずもがなのひとこと】
尊敬する先輩のことばの中に、愚生および拙著のなまえがとびだし、おどろきとはずかしさがこみあげましたが、そのまま掲載することにしました。先輩と愚生とは年の差が大きいように、花森のもとで働いた年数も大きくちがいます。しかしながら愚生のような人間でも、花森安治という偉大な思想家のもとで働くことができたことに<誇り>を感じていい——そのことを先輩は、あえて公の場で言ってくれたようにおもえたからです。先輩にはこれからも、花森安治と『暮しの手帖』を、もっともっと多く語り伝えてほしいものです。そばにいて見聞きした具体的な事実は、知りたいと欲している者の想像力をかきたて、すぐにではなくとも、必ずや役に立つはずです。