2015年4月16日木曜日

宮崎静夫さん

宮崎静夫 「異国の丘」2004 油彩


おととし平成二十五年三月、「戦中・戦後の戦病者〜二度の除隊を経て花森安治のあゆみ〜展」がひらかれました。わたしは暮しの手帖編集部の大先輩、河津一哉さんとともに、東京九段下の<しょうけい館>を訪れました。時をおなじくして九段下の<九段ギャラリー>では、「平和と人権を考える絵画展2013 元満蒙開拓青少年義勇団・シベリヤ抑留者宮崎静夫の世界展」もひらかれていました。

おもいがけない遭遇でした。さかのぼること三十五年まえ、花森安治がなくなった年のことです。「暮しの手帖」Ⅲ世紀55号に「今年もまた夏がきた」と題する異色の反戦記事が掲載されましたが、じつはそれを企画したのが河津さんであり、反戦画家として紹介されたのが宮崎静夫さんだったのです。


『暮しの手帖』Ⅲ世紀55号1978 (見出し文字 大橋鎭子)



展覧会の開催はもとより、会場での出会いを申し合わせたわけではありません。じっさい地下鉄の階段をあがって外に出たとき、河津さんははじめて宮崎さんの展覧会を知ったのでした。熊本からの宮崎さん、東京杉並からの河津さん、そして長野からの小生、その三人が、暮しの手帖という雑誌の縁によって、奇しくも三十五年ぶりに出会いました。


「宮崎静夫の世界展」リーフレット


宮崎静夫さんは昭和十七年、十五歳にして満蒙開拓青少年義勇軍に志願しました。敗戦によりソ連軍の捕虜となってシベリヤへ送られ、四年間も抑留されました。そこで宮崎少年が体験した光景は、平和であればごくふつうに暮せたであろう人々が、戦争ゆえに演じてしまう<地獄>でした。

ふるさとに帰る日を夢みながら、シベリヤ抑留でなくなったのは、極寒の自然環境と過酷な労役による傷病死だけではありませんでした。精神錯乱、自死、ささいなことから起こる捕虜同士のなぐり合い、リンチ、わずかな食料をめぐる殺し合いが、まれではなかったのです。だれにも止められず、眼を背けているしかなかった・・・それが地獄で生きぬくことでした。その記憶が復員した宮崎さんに、絵筆をとらせる動機となりました。

死者たちの無念を伝えなくてはならぬ。
二度と戦争をおこしてはならぬ 。

宮崎さんがかく絵は、どれも明澄さと陰鬱さが同居しています。陰鬱さをもたらしているのはリアルに描かれた兵士と髑髏——。 明澄さをもたらしているのは、どこまでも蒼く澄んだシベリヤの空と透きとおった風ではないかとおもえます。その下で、戦争という愚かな人間のいとなみがくり返され、そこに吹く永遠の風がいまも挽歌をうたいつぐ——。

「わたしがかく絵は売れません。でも、わたしにはこういう絵しか描けないのです」という宮崎さんに、小生が「シベリヤでなくなった人たちの魂の声がきこえてくるような気がします」とこたえたとき、花森安治のおもかげに似た宮崎さんの眼に、涙がにじみました。

死者と向き合い、その魂と語り合い、描くことを使命として選ばれたのが宮崎静夫という画家であり、その画業を支えるために選ばれたのが妻の久子さんであったとおもえます。宮崎静夫は美大を出ていません。海老原喜之助の弟子となり、おなじ弟子であった久子さんと結ばれたのでした。

編集者河津一哉はこう記事に書いています。
《戦争の記憶がしだいに風化してゆく時の流れの中で、宮崎さんは、静かに、鋭く、生と死をかきつづける。それは過去にとらわれているのではない。そこに描かれるのは、むしろ、未来のための、奥深い呼びかけであり、人間のやさしさ、生命のいとおしさである。》

去る四月十二日、わたしたち戦争を知らない者のために、戦場の死者の魂を描きつづけた画家宮崎静夫は、悲しく透きとおった風となって去りました。享年 八十七。

合掌