……… Les couvertures variées qu'un artisan Yasuji Hanamori dessinées. アルチザンが描いた表紙絵たち
2015年1月13日火曜日
終戦から70年めの花森忌
1月14日は花森安治の祥月命日。
花森が心筋梗塞の再発で急逝したのは1978年のこと。その日から37年の歳月がながれた。ことしは終戦から70年。戦争の狂気、もたらす悲惨と苦難を身をもって体験したひとびとが世を去るのを待ちかねたように、いま日本は「いつか来た道」をふたたび突っ走ろうとしている。その危うさを、おそらく誰もが気づいているはずなのだが、・・・。
花森に『無名戦士の墓』と題する随筆がある。そのなかの一節。
《出来上がった日には、天皇と皇后がおまいりになった。大臣も参列したろう。しかし、それきりであった。
外国には大てい無名戦士の墓があって、各国の元首や首相級の人物がその国を訪れると、必ずおまいりするのが儀礼である。まえの首相岸信介氏が外遊したときも、もちろんそうしてきたが、出かけるまえ、日本の無名戦士の墓にまいってくれとたのんだら、忙しいからと花束だけをとどけてよこした》
つぎにひくのは、花森安治の遺文からではない。しかし、いまの日本の異様な政治状況をみごと写している。ブログにのせることを花森もゆるしてくれるとおもう。
《——ここにたけりくるっている人たちは、何か妙なものに動かされています。一人一人はあるいは別のことを考えているのかもしれません。しかし、全体となると、それは消えてしまってどこにも出てきません。人々はお互いにあおりたてられた虚勢といったようなものから、後にはひけなくなっているのです。別な態度をとれなくなっているのです。何か一人一人の意志とははなれたものが、全体をきめて動かしています。この頑固なものに対しては、どこからどうとりついて説いていいのか、分りませんでした。中には、本当にここで死ぬまで戦おうと決心している人もたしかにいました。しかし、そうではなくて、もっと別な行動に出た方が正しいのではないか、と疑っている人もいるにちがいないと思われました。しかし、そういうことはいいだせないのです。なぜいいだせないかというと、それは大勢にひきずられる弱さということもあるのですが、何より、いったい今どういうことになっているのか事情が分らない。判断のしようがない。たとえ自分が分別あることを主張したくても、はっきりした根拠をたてにくい。それで、威勢のいい無謀な議論の方が勝つ——》
これは『ビルマの竪琴』の主人公水島上等兵が、隊長と戦友にあてた手紙の中でかいたことば。とりもなおさず作者竹山道雄のことばである。執筆当時、竹山は保守反動のレッテルを貼られ、深い孤独をあじわっていたという。良心にしたがって節をまげずに生きること、頑なに偏った集団意識を変えることのむつかしさが、竹山にはよくわかっていたとおもう。
国民に知られてはつごうの悪い情報をかくす秘密保護法をつくり、平和憲法を改正し「強い日本を取り戻す」なんて威勢のいい議論に与しているかぎり、政府与党の議員諸君の胸には、竹山の平易なことばをもってしても、平和をねがう国民のおもいは届かないであろう。いや、ふたたび国が破れたのちは、皮肉にも竹山のことばをもって、またもやいっせいに自己弁明をはかりそうな気がする。「何も知らなかった、だまされた」と。
安倍首相は1月11日、尊崇する祖父岸信介とその弟佐藤栄作の墓にまいり、戦後70年をきし、墓前であらためて誓いをたてたという。靖国神社へは玉串料だけとどけてすます姑息なやり方は、祖父をまねたのであろう。恒久平和を希求する天皇皇后両陛下と国民のこころを、ふみにじっているとしか見えない。先祖の墓まいりが悪いのではない。閣議決定で憲法解釈を変える無謀なやりかたと同じで、この御仁には日本の首相であることの自覚と海外諸国への配慮がたりないのである。ふたたび花森の遺文から引く。
《生きて帰った者もあるし、死んで帰ってきた者もいる。死んで靖国神社にまつられているものもあれば、名もわからず弾薬庫のすみにおかれ、やっと墓が出来ても、国も知らん顔、だれもかえりみようとしない者もある。(こんな国ってあるものか)》
政府閣僚諸君、与党諸君、いや国会議員すべてのみなさん、まずは無名戦没者の墓(千鳥ヶ淵戦没者墓園)へおまいりしてください。 ヘーゲルさんもケリーさんも、おまいりしてくれたじゃないですか。日本人ならおまいりできるはずだ。いや、しなければならない。竹山道雄『ビルマの竪琴』の水島上等兵はこう書いている。
《集まっている人の多くは婦人でした。青い目にばら色の頬をして、きよらかなきりっとした看護婦の服装をしていました。男は帽子をぬいでいました。その人々がいま埋めおわった墓のほとりに立って、賛美歌を合唱していたのでした。
イギリス人たちは敬虔にうたいおえて、胸に十字をきり、首をたれて黙禱をしたあとで、しずかにそこを離れました。
私はかれらが去ったあとに行きました。そこにはあたらしい石がおいてあって、小さいけれどもきれいな花環が供えてありました。そして、その碑面には「日本兵無名戦士の墓」とほってありました。》
——新潮文庫『ビルマの竪琴』(昭和34年4月15日初版発行)より
<註 1>『無名戦士の墓』は、 花森安治『一戔五厘の旗』(暮しの手帖社刊)に収められています。ぜひ読んでください。
<註 2>このブログで検証したように「何も知らなかった、だまされた」は、花森のことばではない。それは終戦直後、戦勝国側による戦犯追及から逃れるために、日本の旧軍人たちが口をそろえて言ったことばである。
<註 3>首相が直接おもむき、諸外国と友好を深めるのはよいことである。しかし経済援助の名目でカネを土産にするのは、カビ臭い金権政治そのままではないか。外国人から札束で頬をなでられて、人間としての尊厳と誇りが傷つかない国民が、いるものであろうか。「顔で笑って心で泣いて」という言い方が日本語にはある。
<註 4>下のサイトで千鳥ヶ淵戦没者墓苑への近年の参拝状況がわかる。
http://www.boen.or.jp/boen00.htm