2012年9月4日火曜日

【花森安治表紙原画展をみる 追伸】


暮しの手帖 Ⅱ− 4号 1970 


花森安治の『暮しの手帖』の表紙には、よその雑誌にはない特徴がいくつかありました。いちばんは誌名のロゴです。誌名はいわば看板ですから、ふつうは一つのロゴをだいじに守り通します。しかし花森はそれをしませんでした。表紙の絵がらにあわせて、ふさわしいロゴにかき換えました。そのこまやかな美意識は、号数や発行年の文字にも向けられていて、型にはまらないように、マンネリ化しないようにという、ものを作り出す職人の意志が感じられます。


暮しの手帖 Ⅱ− 4号 法定文字の部分

つぎに見すごされがちなのが「法定文字」です。これは暮しの手帖のⅡ世紀(通巻101号)から顕著になりますが、花森安治はこの文字列を、なるべくめだたないようにデザインしました。こころをこめて描いた表紙に、あたかも土足で踏み入ってくるがごとき権力に対しての、花森の抵抗とも受けとれます。なければ、どんなにすっきりするか。

ロゴのちがいと法定文字の配置を見くらべていただきたく、なかでも特徴がきわだっていた11号と22号の表紙と部分を下にごらんいいれます。


暮しの手帖 Ⅱ−11号 1971



暮しの手帖 Ⅱ−11号 法定文字の部分


大げさにいえば11号では、誌名のまわりの白い部分を「死守」したという感じです。言論の砦としての『暮しの手帖』をなんとしても守りぬく、花森の決意がそこにうかがえます。


暮しの手帖 Ⅱ− 22号 1973


暮しの手帖 Ⅱ− 22号 法定文字の部分


22号では、法定文字をついに倒立させました。法律だから文字列を入れることにはしたがうが、いれかたまで規制するのは表現の自由の侵害。とはいうものの孤立無援、だれも文句をいわないことにリクツで張り合ってもしかたありません。こんなところにも花森安治のトンチとユーモア、鋭い批評精神がありました。

生前、花森は「見れども見えず」と部員を叱咤することしきりでした。思いこみが、ものをありのままに見えなくしてしまうのです。たとえば『暮しの手帖』という誌名を、ちかごろは「暮らしの手帖」とか「暮らしの手帳」と書いて、それがあやまちであることに気づかない人がふえました。ワープロまかせの漢字変換によっておきる誤謬ですが、ましてやそれが「子どもの頃から読んでいた」という方であったとき、 正直がっかりします。「暮らしのヒント集」はどうなんだと言われりゃ、どうしょうもないけれど。



【希望と反省】
世田谷美術館での表紙原画展は好評のうちに終りました。おわってみると、いちまつのさみしさを感じないではいられません。花森安治の職人(アルチザン)としての業績をもっと見たい、もっと多くの人に見てほしいし知ってほしい、それにはやはり表紙原画だけでは、ものたりなさをぬぐい去れないのでした。

なるべく近い時期に、たとえば世田谷文学館や松江美術館で開催されたような花森安治の全貌をうかがえるような展覧会を希望します。できれば原画と雑誌を見くらべられるよう、分けずにいっしょに展示してください。

なお、小生はこんかい家族づれで観覧できる機会にめぐまれました。併設されていた村山知義展を見おえて美術館から出たとき、花森の原画をはじめて眼にした愚息がめずらしく感想を口にしました。
「花森さんは、やっぱり天才なんだよなあ。いま見ても、ぜんぜん古くささを感じさせないもん」——百聞は一見に如かず、なのでした。

小生は不覚をとりました。メガネ(老眼鏡)をわすれたことです。つぎに行くときは、メガネはもちろん、ルーペもしっかり持参します。おのおの方、足腰をきたえ、次回開催にそなえましょう。世田谷美術館のみなさん、期待していますよ。